未だ社会を歪ませ続ける「鹿鳴館時代」
明治16年、欧化主義全盛の中、東京府麹町区(現・東京都千代田区)にその象徴たる建築物「鹿鳴館」が建築された。当時の明治政府が威信をかけ3年もかけて建築した鹿鳴館だったが、当時日本に滞在し鹿鳴館の舞踏会にも参加したフランス人作家ピエール・ロティは「これは美しいものでない。わが国の避暑地にあるカジノみたいな建物だ。」と皮肉った。ロティは当時の様子を「江戸の舞踏会」という本に記したことでも知られるが、その中で燕尾服(タキシード)を着た日本人を「猿にそっくり」とまで書いている。そして女性については、
と記し、舞踏会でダンスを踊る日本女性については、
と記している。この頃の日本は幕末に結ばされた不平等条約改正のため、「文明国」であることを欧米にアピールする必要が確かにあった。ただそのためにそれまであった文化の多くをそこで切り捨ててしまい、明治は江戸時代までのキャンセルカルチャーの上に成り立つ文化、永井荷風も言ったように「無智な虚栄心の上に建設された文化」でもあった。要するに「日本」を守るために「日本」を殺す、という矛盾に嵌まってしまっていたのが明治の本質だった。
つまりそこで価値観の「ねじれ」が生じる。明治期に欧米に「文明国」と認めてもらうために急ごしらえで体裁よく作った社会制度は、その後の時代においても「伝統」のような顔をするようになった。家父長制はその最たるもので、それに伴う男尊女卑、夫婦同姓も欧米のファミリーネームに倣って導入したもので、それ以前の武家社会では儒教的価値観が強く別姓が普通だった。体罰も欧米の軍隊の行動様式や教育法から取り入れられた。
要するに日本は明治の時点でアイデンティティの書き換えが行われ、それが何ら訂正されることなく上書き保存されたまま150年経過してしまい、その時に「作られた伝統」を保守する人が「愛国者」を自称するようになってしまった。よく「~だから日本はだめなんだ!」みたいに言われる事の大半は、概ねこの時「作られた伝統」の残滓であることが多い。鹿鳴館で舞踏会が行われていたのは僅か4年ほどだったが、その時生じた価値観の「ねじれ」は今でも社会を歪ませ続けている。