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狂気と創造性は紙一重の背中合わせ

18世紀オーストリアの作曲家、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトはうんこが大好きだった。当時恋人に充てたと見られる手紙には以下のように綴られている。

「あっ、お尻が痛い、燃えているようだ!どうしたというのだろう!もしかしたら、うんこが出そうなのかな?―そうだ、そうだ、うんこよ、お前だな、見えるぞ、においがするぞ―そして―何だ、これは?」ー略ー

他にも手紙の中の言葉として、

「あなたの鼻にうんこをしてやろうか」

「花壇のなかにバリバリッとうんこをしなさい。」

「ぐっすりお眠りよ。おしりを口の中につっこんで。」

「うんこで君のベッドを汚してやるぞ!」

といった名言が残されている。

モーツァルトと言えばクラシック音楽に特に興味がなくても絶対聞いたことあるはずの定番中の定番曲が多く、聴いてみれば「ああこれか!」と思うような、クラシックにおけるビートルズ的な存在で、個人的にはレクイエムが好きである。「そこまで作曲家がなぜうんこ好き?」と思うかもしれないが、そこまでの作曲家であるからこそ「うんこ好き」であるとも言える。

何もうんこに限った話ではないが、表現者の【才能・創造性】と【狂気・変態性】はある意味紙一重の背中合わせみたいなもので、ふだんはもちろん市民社会の側に妥協し狂気の部分は隠されているが、時としてどうしてもそうした変態性の部分が滲み出てしまうことがある。出さないようにしているし出ないに越したことはないが、それでもどうしても出てしまう。表現者というのはそういうサガを宿命的に持っているともいえる。 モーツァルトもビートルズも教科書に載ってるが、だからといって人間としても品行方正だったなんてことは全くない。権力に従順な優等生はむしろ表現者には向いてない。それはAIが無難な絵が音楽しか創作できないことによく表れてもいる。

キャンセルカルチャーが跋扈する現在、企業も一般人もあまりにも表現者・タレント・俳優などに品行方正さを求めすぎているように見える。叩いて埃の出ない人間なんているはずがないし、それは表現者なら尚更でもある。そんなに人間の猥雑さを排除した世界がお好みならじゃあモーツァルトはどうなるのか。過去に残された手紙から「性加害」ならぬ「うんこ加害」はあったものと思われる。

「モーツァルトを聴くことは『うんこ加害』を容認することになる」とか言って今から全てのモーツァルト音楽を社会からキャンセルするのか?それとも「モ」の字も付かない名前に後世の人間が勝手に名称変更でもするのか?さらに言えばモーツァルト以外にも変態行為に及んだ過去全ての表現者も同様の理由でキャンセルするのか?そんな「文化の自殺」をやって、キレイで清浄な世界ができましたメデタシメデタシと本当に思うのか?

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