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「音楽」は明治時代から始まった
「音楽」が日本において始まったのは明治以降のことで、それまで人々に親しまれた歌はそれまで音曲(おんぎょく)と呼ばれるのが一般的だった。 西洋から取り入れたものを「音楽」と呼んだので、明治以前の日本には「音楽」は存在しなかった事になる。ではなぜ「音楽」を取り入れたのかと言えば近代的な軍事制度を導入するためで、幕末、浦賀沖にやってきたペリー一行の軍楽隊に当時の日本人は圧倒された。太鼓のリズムに合わせて大勢が足並を揃えて行進するのを日本人はそれまで見たことがなく、軍隊を近代化するためには、笛やラッパ、ドラムの合図で一斉に動くといった集団行動、音楽で統制された整然とした動きがまず不可欠だった。
そして「富国強兵」のもと教育現場でもそれまで日本人にまったく馴染みのなかった「音楽」が教えられることになり、そこで「文部省唱歌」が作られることになる。明治政府は従来日本にあった音曲(おんぎょく)は低俗であるとして一切切り捨て、「文明的」な海外の楽曲に日本語詞を付けるのを方針とした。そして日本人にドレミの音感、西欧の音感を植え付ける、その方針を担っていたのが文部省音楽取調掛・井澤修二という人物だった。しかし西洋は7音階なのに対し日本は5音階と全く音感が違い、そのため井澤は最初自身も「ドレミファソラシド」を歌うことができなかった。ドレミまでは行けても、その次半音だけ上がるファがどうしても歌えず、悔しさのあまり井澤は三日三晩泣き続けたという。
そんな感じで「音楽」は教える側も未知や無知ばかりで教師らは学校でもろくに教えることができず、「学校唱歌校門を出ず」と揶揄された。学校でだけ歌い、家に帰っても歌う子供はいなかったという事。焦りを見せる文部省は「音楽」の浸透のため旧来の音曲(おんぎょく)の排除に動き出し、盆踊り禁止令や芸能禁止令(能・狂言など)を発令する。これが増々の文化的断絶を生んでしまい、明治以前の文化は日本人の記憶から消去され、西欧的な「文明人」の価値観に書き換えられ今日まで至っている。井澤は後に「蛍の光」「ちょうちょ」などに日本語詞をつけ広く知られることになるが、この「唱歌教育」により全日本人の音感を旧来のものから西欧の音感に見事すっかりすげ替えてしまった。今日を生きる日本人が無意識に持っているのはこの「明治の時点ですげ替えられた音感」という事になる。
そしてこの時代の音感のすげ替えがその後の日本人の音楽観、ひいてはポップスの成り立ちにも大きく影響する。例えばアメリカではフォークやブルースといった土着文化を生かし、その土台の上にR&Bやロックが成立しているのに対し、日本は明治の時点で土着文化を排除し、一旦西洋音楽にまるっとすげ替えた上にポップスも成立されている。要するに「江戸時代までのキャンセルカルチャーの上に明治文化を成立させた」わけで、これは長らく「邦楽は洋楽の劣化コピー」と言われ続けた一因でもあり、音楽室の偉人の肖像の中に明治以前の日本人が誰もいないことの一因でもある。
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