ビルドゥングス・ロマンと「境界の物語」──『空の境界』と「新伝綺小説」の実相──
*本稿は、大学の卒業論文として書いた『空の境界』論の加筆修正版になります。卒論の方はnoteにも掲載しています。↓
*また、本稿を新たに加筆修正した評論を、「型月伝奇研究センター」の評論誌『Binder.』に寄稿しております。
はじめに 「新伝綺小説」とは何だったのか
二〇〇四年、講談社から奈須きのこ作『空の境界 the Garden of sinners』が刊行された。当作品は「新伝綺小説」と銘打たれて発表されるや否や、瞬く間に人気に火が付いた。
それから二〇〇七年にはアニメ映画として劇場公開されるに至り 、同年には文庫版も刊行された。
人気はそれだけに留まらず、二〇一八年には映画のリバイバル上映がなされ 、さらには原作誕生二〇周年を記念して五〇〇〇部限定の愛蔵版が販売された。
奈須きのこは、元々ゲームブランド「TYPE-MOON」のゲームシナリオライターであるが、その一方で小説家としても活動していた。
『空の境界』は一九九八年にブログ「竹箒日記」にて公開された。それから二〇〇一年のコミックマーケット61において、同人誌として頒布された。
その際に『空の境界』に着目したのが、当時講談社の編集者であった太田克史だった。太田は『空の境界』の商業出版を奈須へ申し出て、それによって商業誌として刊行されるに至った。
『空の境界』は現代日本(一九九〇年代)を舞台にした作品であり、一般的に、『空の境界』は新伝綺小説の先駆的作品として認知されている。
主人公の両儀式(りょうぎ しき)は二重人格者で、正の側面、女の人格を持つ式と、負の側面、男の人格を持つ織(しき)が同一の体に宿っている。そのような在り方に何の疑問も抱かずに生きてきた彼女(彼)は一人の青年、黒桐幹也(こくとう みきや)に出会ったことで、心境に変化が起きる。
黒桐と交流を深めていくうちに彼へ好意を寄せる式だったが、その一方で黒桐と接することで己の異常性を否応なく自覚させられて、そんな自分が普通の日常を過ごしていいのかという不安に苛まれる。
ある日、式は交通事故に遭って意識不明の状態に陥る。それから二年後に目覚めた式は、もう一人の人格であった織が消失していることに気がつく。彼の消失と引き換えに、式は「直死の魔眼」という、あらゆる生命の死を視ることができる力を獲得する。その力を武器に、様々な超能力者、魔術師と邂逅していく中で、やがて式は織のいない自身の生を受け入れていくようになる。
新伝綺小説と銘打たれた経緯については、太田克史が編集を務めた文芸雑誌『ファウスト』との繋がりが関わっている。
『ファウスト』は二〇〇三年に講談社から刊行され、多くの若手作家の作品が掲載されていた。その中で、『ファウスト』第三号において新伝綺小説と称された作品が掲載されて、そのカテゴリーの中に『空の境界』も含まれたのだ。太田は新伝綺小説を打ち出したコンセプトについて、次のように語っている。
引用文中にある「ゼロ年代」とは、二〇〇〇年〜二〇〇九年までの十年間の時期を指した言葉であり、ひいてはその時期に流行したサブカルチャー全体を指す。 この時期はちょうど『ファウスト』第一号が刊行され、『空の境界』が商業展開を果たした二〇〇四年と重なる。
今でも『空の境界』は新伝綺小説だと認知されており、メディアミックスが行われる度に新伝綺小説という言葉でもって作品の紹介がなされる。
しかし、ここで一つの疑問が浮かび上がってくる。果たして、新伝綺小説とはどのようなジャンルを示しているのか。「`八〇年代伝奇」と「`九〇年代のまんが・アニメ・ゲーム」が融合した小説とは一体どのようなものなのか。
そのような疑問を踏まえて、本論では新伝綺小説というジャンルの不確かさを追及するとともに、新伝綺小説とは異なる視点でもって『空の境界』という作品を見つめ直す。そこから、『空の境界』の本質に迫っていく。
第1章 流動的な文学史の継承
そもそも新伝綺小説というジャンルの不透明さについては、二〇〇四年に東浩紀が発言している。彼が編集を務めた批評同人誌『波状言論』 において、『「新伝綺」という名称は奈須さんひとりのために作られたもの』と述べており、『ファウスト』第三号の刊行以前とそれ以後とで明らかな「方針転換」が行われていることを指摘している。
『ファウスト』の第一号と第二号において注目されていた作家は主に、佐藤友哉、舞城王太郎、西尾維新であった。彼らはいずれも講談社が主催するエンターテインメント系小説の公募であるメフィスト賞を受賞している。彼らの他にも、滝本竜彦などといった若手の作家による作品群は、後に「ファウスト系」小説として認知されることとなる。
しかし、第三号で新伝綺特集を組まれた際に持ち上げられたのは、奈須きのこをはじめ、原田宇陀児、元長柾木であった。佐藤や舞城、西尾といった作家陣は、新伝綺作家には含まれていない。
また、『ファウスト』第六号で再び新伝綺特集が組まれた時は、先述した三人に加えて、竜騎士07と錦メガネが参入していたが、やはり佐藤らは別枠として扱われていた。
『ファウスト』初期の連載はメフィスト賞作家を集めており、そのことから当初の『ファウスト』はミステリ路線を目指していたことが窺える。
しかし、新伝綺小説というジャンルが打ち出されてからは、佐藤らに取って代わるようにして奈須らが台頭している。しかも、その流れに乗るような形で『空の境界』は新伝綺小説として商業展開を果たしている。これでは、東浩紀が「奈須さんひとりのために作られたもの」と考えてしまうのも無理はない。
さらに言えば、新伝綺小説に含まれる個々の作品を見ても、そのジャンルの不透明さは窺い知れる。新伝綺小説を手掛けた作家陣に共通している点は、ゲームシナリオライターであるということだ。しかし、彼らの執筆する作品には明確な共通点が見受けられない。
例えば、原田宇陀児の新伝綺小説と称されている「サウスベリィの下で」 という作品は、ジャンルでいえばミステリ小説とも呼べる。この作品では、主人公の回想を通して、主人公と姉の確執に関する謎が徐々に開示されていく。
また、竜騎士07の新伝綺小説である「怪談と踊ろう、そしてあなたは階段で踊る」 という作品は、ホラーミステリと呼べる。この作品では、主人公とその友人二人が冗談半分で始めた怪談話が、やがて彼らの手に負えない状態にまで膨れ上がってしまう過程を描く。
『ファウスト』においては、ジャンルに統一性のない作品群が新伝綺小説という一つの枠組みに収められている。そのような定義はあまりにも無理があるのではないだろうか。
太田曰く、新伝綺小説は「`八〇年代伝奇ムーブメントの影響を受けて成立した`九〇年代以降のまんが・アニメ・ゲームといったヴィジュアル表現」に影響を受けているという。しかし、「ヴィジュアル表現」と称していたことに関して、単に新伝綺作家の面々がゲームシナリオを手掛けていた背景からそのように称しているのではないかという疑念が拭い切れない。
そもそも、新伝綺小説の元となっている「伝奇小説」というカテゴリーでさえ、その定義は曖昧だ。伝奇小説は「新編 日本国語大辞典」によると次の通りに定義づけられる。
この辞書的な意義だけでは伝奇小説の全容を掴むことができない。また、岡崎由美によると、伝奇は「奇を伝える」ことを目的としていて、そのために物語の表現に重みを持たせていると述べている。「起伏に富んだファンタスティックな物語性と華やかな文体」、それから「虚構の物語の隆盛」という二点の特徴を有しているのが「伝奇小説」なのだという。
果たして、この字義的な意味は適しているのだろうか。伝奇小説に含められる作品として挙げられるのは、神話や伝承、怪異モノや異世界の物語、またはファンタジーやSF、果てはホラーやミステリなど多岐にわたる。 確かに「奇を伝える」ということであれば、どのジャンルも該当するだろう。
しかし、この状態では正確な定義づけが為されているのかという疑問が生まれる。ただでさえ煩雑としたジャンルである伝奇小説なのに、それを継承したとなれば一層煩雑さが増すだけではないのか。それでは正常なカテゴライズとして機能するはずがない。
その上、新伝綺小説のコンセプトである「“非日常”と溶け合って成立している“日常”────あるいは“日常”と溶け合って成立している“非日常”」についてだが、これと類似したジャンルがすでに存在している。それは「ロー・ファンタジー」と呼ばれる。
ロー・ファンタジーとは、現実世界を主な舞台とし、そこに魔法や妖精など異質な存在(ファンタジー的な要素)が介入してくる物語のことだ。多くの場合は魔術や超自然的な要素が相対的に少ないファンタジー文学を指す。ちなみに、J・R・R・トールキン『指輪物語』などを代表とする、魔法や妖精などが普遍的に存在するような世界を舞台にした作品群を「ハイ・ファンタジー」と称されており、ロー・ファンタジーの対義語としてしばしば語られている。
現実世界が「日常」で、ファンタジー的な要素を「非日常」と当てはめれば、新伝綺小説もロー・ファンタジーと同様の構図を有していることが窺える。
このように言い換えられることから見ても、新伝綺小説というジャンルが判然としないことが分かり得る。太田は新伝綺小説について「新たな文学のステージ」 に達したと述べていたが、すでに類似のジャンルが存在していることを踏まえれば、新伝綺小説に新しさを見出すことはできない。
『空の境界』と新伝綺小説の関係について、さらなる検討を行うため、坂上秋成の『TYPE-MOONの軌跡』における記述を参照していく。
坂上曰く、『空の境界』は「伝奇と新本格ミステリの融合」 によって誕生した。その背景には、奈須きのこが強く影響を受けたという三人の作家の存在が関わってくる。
一人目は、『魔界都市〈新宿〉』や『吸血鬼ハンターD』などの伝奇小説を手掛けた菊地秀行。二人目は、『十角館の殺人』や『Another』などのミステリ小説を手掛けた綾辻行人。そして三人目は、『矢吹駆シリーズ』などのミステリ小説や『ヴァンパイヤー戦争』などの伝奇小説を手掛けた笠井潔である。
彼らの作品から「伝奇」的要素と「新本格」的要素を取り入れたことで、それらのハイブリッドとして『空の境界』が誕生したことが窺える。
ちなみに、ここで述べられている「新本格」について、『新編 日本国語大辞典』では次のように定義づけられている。
『空の境界』における「伝奇」的要素とは、主人公である両儀式が持つ「直視の魔眼」や、敵対する登場人物達が持つ「魔術」という神秘を再現する力に該当する。現実世界と表裏一体の形で存在する、「魔術」が用いられる世界。それこそが、『空の境界』に超常的な世界観を構築させている。
それに対して、『空の境界』が含有する「新本格」的要素は、当作品の構成と深く関係している。『空の境界』は時系列とは関係なく物語が展開する。
例えば、「一章 俯瞰風景」は一九九八年九月の出来事とされているが、続く「二章 殺人考察(前)」は一九九五年の出来事となっている。さらには、「三章 痛覚残留」は一九九八年七月の出来事とされる。複雑に時間が交錯する作中の時系列についてはTYPE-MOONの旧公式サイトを参照し、作中の日付をチェックした上で年表としてまとめた。
空の境界 年表
坂上はこの構成について、「時間的な順序が入れ替えられたそれぞれの章に触れながら、自身の頭の中で全体の物語をイメージしていく」ものだと述べている。
あえて時系列をバラバラに解体することで、読者へ断片的に物語の情報を提供することになり、章を重ねていくうちにその断片的な情報を脳内で再構成する。それによって、初期段階では謎だった情報が判明していく。その構造は、謎解きの面白さを追求する「新本格」ミステリに通じるものがある。
この「新本格」的要素と先述した「伝奇」的要素の融合、つまり「伝奇と新本格ミステリの融合」こそが『空の境界』の特色といえる。
以上の内容が、従来の『空の境界』に対する評価である。しかし、冒頭で述べた通り、新伝綺小説というジャンルは非常に不確かな定義だ。
また、坂上の解説で言及されている「新本格」の要素についても、「伝奇」同様に煩雑とした継承が為されていないかどうか綿密に分析する必要がある。新伝綺小説の不確かさが解消されない限り、本当に「伝奇と新本格ミステリの融合」が起こったのかという疑問を払拭することはできない。「伝奇と新本格ミステリの融合」によって『空の境界』の物語が形成されているのか、という追究は不可欠だ。ここで、従来の作品観に囚われない視点から当作品を分析し直す必要がある。
このことを念頭に置き、次章からは「伝奇」的要素と「新本格」的要素にそれぞれ個別に着目して、『空の境界』の読解をさらに深めていく。
第2章 伝奇世界における「教養小説」
まずは「伝奇」という側面に焦点を当てていく。『空の境界』の「伝奇」的要素は主に物語のストーリーラインによって形成される。よって、ここからは当作品の物語に焦点を当てていく。
作中において、両儀式が対峙する敵は四人登場する。「一章 俯瞰風景」より巫条霧絵(ふじょう きりえ)、「三章 痛覚残留」より浅上藤乃(あさがみ ふじの)、「五章 矛盾螺旋」より荒耶宗蓮(あらや そうれん)、「七章 殺人考察(後)」より白純里緒(しらずみ りお)と、それぞれ対峙することになる。
この一連の戦いを通して、両儀式はもう一人の織のいない自らの人生、または殺人鬼としての性質を生まれ持った両儀式という自身について見つめ直す。
ここで注目したい点は、五章に登場した荒耶宗蓮が事実上の黒幕だということだ。荒耶は世界の根源に到達するため、その鍵となる両儀式を捕獲しようと試みた。その計画の一部として、巫条霧絵や浅上藤乃に能力を与えて、式と戦わせた。白純里緒もまた、荒耶の計画のために能力を与えられていたが、彼が式と対峙する前に荒耶が敗れた。つまり、『空の境界』における式の戦いの中心には荒耶が存在していた。
このことについて、作者である奈須きのこは荒耶宗蓮を「古典的な伝奇ヒーロー」と称している。 「古典的な伝奇ヒーロー」とは、「超越性、外部に突きぬけたいという欲望によって駆動されているキャラクター」のことだという旨を、『ファウスト』第一号における武内崇・笠井潔との対談において語られている。
それはつまり、己が生きる日常世界に不満を抱き、その世界から脱却して自由を得たいという感情を示している。栗本薫『魔界水滸伝』、荒俣宏『帝都物語』、藤川圭介『宇宙皇子』などをはじめとする一九八〇年代の「伝奇小説」において、「古典的な伝奇ヒーロー」が多く描かれていたという。
だが、そんな「伝奇ヒーロー」としてのキャラクター像を有する荒耶宗蓮は、両儀式や黒桐幹也にとってみれば「〝和〟を乱す者」と見做される。
何故なら、式も幹也も共通して日常世界の中に生きることを肯定しているからだ。荒耶のように日常を壊そうという考えは持ち合わせていない。そのため、荒耶と式・幹也は対立せざるを得ない。
その結果として、「五章 矛盾螺旋」において荒耶と式は戦うことになった。この五章がいわば『空の境界』の大きな山場となる。
ところで、『空の境界』がブログで掲載されていた当初の段階では、山場となるこの五章で物語が完結する予定だった、と奈須は述べている。その時期の題名は『空の境界式』とされている。
奈須曰く、『空の境界式』は荒耶宗蓮の物語であり、荒耶は『空の境界式』の主人公的存在だった。それから同人誌として刊行される際に六章と七章が追加されたのだが、その話はあくまで両儀式と黒桐幹也のための話として執筆したという。
ここで、主人公が荒耶宗蓮から両儀式・黒桐幹也へと交代したことが窺える。その表れとして、『空の境界式』から『空の境界』へと改題された。
講談社文庫版『空の境界(下)』のあとがきで、笠井潔は「荒耶こそ、物語の主人公にふさわしい。〝根源の渦〟に達することを渇望して闘う魔術師とは、真の世界=私を求めて遍歴を重ねる騎士や、教養小説の主人公の子孫ともいえるからだ」 と語っている。
しかし、これはあくまで五章までの物語を読んだ上での評価に過ぎない。七章までを含めた物語を読めば、やはり主人公が両儀式であることは自ずと判明する。ここからは、主人公としての両儀式の在り方に着目していく。
五章で荒耶宗蓮が敗北を喫して作中から退場する形になったのは、なるべくしてなったといえる。
何故なら、五章における両儀式はまだ成長過程にあるからだ。確かに、式にとって荒耶は超えるべき存在であり、そのことは奈須きのこも述べている。
しかし、五章での戦いはいわば外敵を排除しただけに過ぎない。この戦いを経て、式が大きく成長したかと問われればそうではない。織を失ったことに真正面から向き合うことも無ければ、黒桐幹也との関係が発展したわけでもない。
むしろ、式が精神的に成長するきっかけとなるのは、七章における白純里緒との戦いであろう。
白純里緒は「二章 殺人考察(前)」「七章 殺人考察(後)」における連続殺人事件の犯人である。かつて両儀式に告白した際、「弱い人は嫌いです」 と断られてしまう。
それから、里緒は強い自分になることに執着する。そんな矢先、彼は不慮の事故によって人を殺めてしまう。自らの殺人が露見してしまうことを恐れた彼は、死体を隠すことにした。しかし、一人の人間を運ぶことは容易なことではない。どうしたものかと悩む里緒は、死体を食べることを思いつく。とはいえ、そのような常軌を逸した行為は実行できるはずもない。なおも躊躇っていた里緒の元へ荒耶宗蓮が現れる。
「常識という範疇から“壊れている”方法」を思いつく里緒は特別な存在なのだと語る荒耶は、死体を食べるという方法を肯定する。それに後押しされた里緒は、常識から壊れた行為を実行した。そうして死体を丸々食した里緒に感銘を受けた荒耶は、里緒に超能力を授けた(作品に即するならば、「起源を覚醒させた」)。そうして「強い自分」を手に入れた里緒は、殺人鬼となって人々を手にかけていく。
殺人鬼と化した白純里緒と、生まれつき殺人衝動を抱える両儀式はとても近しい存在だ。式は織を失ってもなお、殺人衝動を抱えたままだ。一度も人を殺めたことがないとはいえ、殺人鬼としての資質を備えていることは間違いない。
それゆえ、里緒と式は合わせ鏡のような関係となる。だからこそ、式は里緒を強く意識する。
かつて式に恋した里緒は、四年の月日を経て式を追い求める。その一方で、式もまた己の殺人衝動に駆られるようにして、里緒を探し出す。
かくして二人は対峙するのだが、そこに黒桐幹也が介入することでその様相は深化していく。里緒と対峙することで式は殺人鬼としての自分と向き合う。さらに、幹也と過ごす日常を想う気持ちも相まって、式の自己探求は一層の意味付けを要する。
式は幹也と出会ったことで、普通の日常に憧れる(作中でいえば「ユメをみる」)ようになる。それは、二重人格者として両儀家に生まれた自身の出生や、生まれながらにして殺人衝動を持つという異常性を背景に持つからこそ、普通というものに対する気持ちはより強まる。
しかし、普通に生きるということは異常な側面を一手に引き受けている織を否定することに繋がる。式にとって、織の存在は友人や実の家族よりも大切なものだ。そう簡単に切り捨てられる存在ではない。
そうしたジレンマに苛まれて、式は「ユメをみる」度に苦痛を味わうことになる。その苦痛は「ユメ」(=普通)の象徴である幹也を殺せば解消される(と式は思っている)。実際、二章において、式は幹也に刃を向けた。しかし、すんでのところで式は刃を止めた。
異常の中でしか生きることができなかった織。だからこそ、何一つ狂いのない普通の日常というものに憧れを抱いた。その願いの尊さは、彼と同じ時を生きてきた式にもよく理解できた。理解できたから、幹也を殺すことができなかった。
式は幹也と過ごす日常を守ろうとした。それから三年後、その日常を壊さんとして白純里緒が現れた。であれば、式は里緒と対峙しなければならない。かつて織が願った「ユメ」を守るために。
結果として、式は里緒を殺すことになる。だが、それは単に殺人衝動に駆られたからではなく、里緒の手で幹也が殺された(実際には生き延びているが)ことへの怒りから起こった殺人だ。幹也を喪ったことによる怒りと、それから絶望。それらの感情がもたらした殺人は、殺したいから殺すというトートロジーな動機による殺人とは決定的に質が異なる。
それはつまり、己の欲望のために殺人を犯してきた白純里緒のような殺人鬼に堕落せずに済んだことを意味する。だからこそ、式はすんでのところで人間性を保持することができて、尚且つ幹也と過ごす日常を守ることもできたと言えよう。
ただし、式が殺人を犯したという事実は不変であり、それが倫理的に誤っていることを見落としてはならない。作中では里緒は事故死したとされており、式の社会的な立場が傷つくことはなかった。しかし、結果として里緒の命を絶ったのは紛れもなく式である。この罪の処遇について、どう捉えるべきか。
それについて、作中では決して放置されることはなかった。幹也は式が里緒を殺したことを知る。その上で、式が背負った罪の十字架を自身も一緒に背負うことを決意する。それでいて、幹也は式に対して「君を────一生、許(はな)さない」と告げている。
これは、共犯者として式と一生を過ごすことはせず、式の罪を咎められる唯一の存在として式に連れ添うことを示している。それは、愛すべき存在だからこそ、決して罪から目を背ける行為をしたくないという確固たる愛情の現れである。
そして、幹也がいるからこそ、式は日常の世界から逸脱することなく、これからの人生を送ることができるのだ。
里緒との対峙を経て、式は殺人鬼ではなく一人の人間として生きていくこと、もっといえば、かつて織が願った普通の日常という「ユメ」を黒桐幹也と共に生きていく決意を固める。
ここにきて、式は精神的に大きく成長することができたといえる。「魔術」という非現実的な要素を孕んだ世界観の中で描かれたのは他でもなく、両儀式という人間の成長物語だったのだ。
それを踏まえると、『空の境界』という作品から伝奇小説とは異なる別の側面が浮かび上がってくる。それは「教養小説」という側面である。教養小説とは、主人公が様々な体験を通して内面的に成長していく物語を書いた小説を指す。
魔術を代表とする伝奇小説という側面は、あくまで式の成長物語という教養小説的なストーリーラインを補強するための一要素でしかない。
それを裏付けるように、「古典的な伝奇ヒーロー」と称された荒耶宗蓮との対決が中盤に据えられており、その付属物でしかなかった白純里緒との対決が終盤に据えられた。
このことから、物語の主軸に置かれているのは式が一人の人間として成長していく姿にあることが窺い知れる。
また、荒耶が式に倒されたことは「伝奇」的な世界との決別ともいえる。「伝奇」の代表として現れた荒耶に立ち向かう式は、日常を求める者である。それは言い換えれば、魔術などの異能力が跋扈する「異常」と相反する「正常」の立場に立っていることとなる。
そのように対立する二人であるが、奈須や笠井はその二人を『空の境界』の主人公だと述べている。特に笠井は「荒耶こそ、物語の主人公にふさわしい」と述べている。
しかし、その見解はあくまで『空の境界式』というプロトタイプの物語にしか当てはまらない。『空の境界』という物語においては、やはり両儀式こそが主人公だといえよう。そのことを決定づけているのは、式と荒耶の世界に対する姿勢の違いに起因する。
まずは荒耶についてだが、彼は世界に絶望していた。この世には苦しみがあり、不条理に人が死ぬという現実を知った荒耶は、「根源の渦」に到達することを望んだ。「根源の渦」には世界の全てが内包されていると言われており、荒耶はそこへ辿り着くことで何故この世には苦しみが存在するのかという理由を知ろうとした。世の理を理解することが救いを見出す唯一の方法だと考えたのだ。
そのために両儀式を利用しようとするのだが、結果として荒耶の願いは叶わないまま彼は消滅する。
何故荒耶の悲願は達成されず、消滅という末路を辿ってしまったのか。それは、単に式の力が上回っていたからではない。式の方が、荒耶以上に世界と向き合っていて、その一方で荒耶はかえって世界から目を背けてしまっていたが故に、荒耶は敗北を喫したのだ。
式は積極的に世界と向き合おうとしていたというわけではない。彼女は人類全体といった大規模なことではなく、自身と周囲の人達の生きる空間に限定して注目してきた。
織という半身を喪った欠如感、織が望んだ日常という名の「ユメ」、幹也への複雑な想い。式が向き合ってきたのは、あくまでも自身と地続きになった狭い範囲の世界だった。しかし、その姿勢こそが荒耶との差を決定づける要因となった。
荒耶が重視していたのは、人類全体を視野に入れた広い世界だった。しかし、それは荒耶自身とはとてつもなくかけ離れた世界でもあった。その広すぎる世界に目を向ける代わりに、自分自身やその周りに留まる狭い範囲の世界、いわば日常からは目を背けることとなる。
それはつまり、本来荒耶が向き合わなければならない現実から、彼自身が逃避していたことを示していた。そのような荒耶の姿勢に対して、同じ魔術師である蒼崎橙子(あおざき とうこ)が次のように語る。
荒耶は「根源の渦」への到達という壮大な目標に向かって生きてきた。しかし、その一方で、彼は一人の人間として生きることを、知らず知らずのうちに断念していた。
その在り方は、最期の時まで人間として救われることのなかった白純理緒の姿と重なる。彼らが生きていた世界とは、つまるところ「伝奇」的要素で形成されたモノだ。荒耶が用いた魔術であったり、白純が覚醒させた起源であったり、超常的な概念が跋扈する世界は、一見するとロマンを感じさせる。
しかし、彼らの末路を見る限り、人間の望む生き方は到底叶いそうにもない。人間が生きていくことができる世界は、あくまで日常の中にしか存在しない。それを証明するかのようにして、荒耶は敗れて、式は日常の世界へと戻っていったのだ。
第3章 「新本格ミステリ」と『空の境界』
前章では、『空の境界』の伝奇的な側面について再検討して、そこから教養小説という側面を見出した。だが『空の境界』には、伝奇的な要素の他に新本格の要素も含まれていると、太田や坂上らは述べている。新本格の要素と称される点については、本作の随所に散りばめられている。
まず、「五章 矛盾螺旋」における小川マンションの特異な構造には、新本格からの影響が如実に現れている。この小川マンションのある仕掛けには、日本におけるミステリ小説の先駆者である江戸川乱歩が提唱する「二つの部屋」トリック との類似点が窺える。
「二つの部屋」トリックとは、内装が全く同じ部屋を二つ用意することで、被害者や目撃者などの認識を撹乱させる手法を指す。本作の小川マンションも、東棟と西棟に別れており、それぞれの棟に全く同じ内装の部屋が造られていた。その構造を利用して、荒耶はマンションで行っている“実験”を部外者に知られないように秘匿してきた。
小川マンションのトリックは、確かにミステリ小説らしい仕掛けではある。しかし、『空の境界』において最も特徴的なトリックは、本稿の第一章で先述した「複雑に時間が交錯する時系列」に当たる。
当作品では、時系列をバラバラにした構成を用いることで、読者に謎を提示している。そして、その謎は章を重ねていく中で解明される。例えば、「二章 殺人考察(前)」で発生した殺人事件の犯人については、「七章 殺人考察(後)」で判明する。さらに、「一章 俯瞰風景」での巫条霧絵、「三章 痛覚残留」での浅上藤乃が式と対峙するように仕向けた存在について、「五章 矛盾螺旋」と小幕「境界式」で判明する。
文庫版『空の境界(上)』のあとがき で、綾辻行人は当作品の複雑なプロット構成は「叙述トリック」と相似することを指摘している。
叙述トリックとは、「作者が読者に対して、叙述レベルで仕掛ける罠」と称されており、綾辻は『十角館の殺人』をはじめとする自身の著作で度々採用している。綾辻曰く、『空の境界』は「伝奇小説的なガジェット」を含む各章のエピソードの中に、「不可思議な謎の提示」→「意想外な解決」というミステリ的な図式・手法を取り入れているという。
プロット上の「錯綜する時系列」の他にも、「めまぐるしく変わる視点」「小出しにされる人物の背景や世界の構造」などの手法を取り入れることで、謎が解けた爽快さを感じさせるミステリ作品の特性を確立しているとも言われている。
だが、綾辻が指摘する「ミステリー的な図式・手法」はあくまで付加的要素に留まっているように考えられる。
何故ならば、そもそも、新本格ミステリでは謎解きの面白さを重視することが前提条件だったはずだからだ。そのために、不可解な事件を設定して、その謎を解き明かす探偵役を配置させる、といった手法が新本格ミステリで採用されてきた。
例を挙げれば、エドガー・アラン・ポーのオーギュスト・デュパンやコナン・ドイルのシャーロック・ホームズ、さらには江戸川乱歩の明智小五郎や横溝正史の金田一耕助などがいえるだろう。
『空の境界』における探偵役と言えば、両儀式と黒桐幹也の二人が当てはまるだろう。確かに、当作品の二章と七章で起きた連続殺人事件は、作中において大きなウェイトを占めている。式と幹也との因縁も深く、二人はそれぞれのアプローチから事件の真相に迫っていった。
しかし、事件の謎はこの物語の主軸に据えられていない。謎を解き明かし、白純里緒というハードルを乗り越えた先に待っている日常への回帰こそが、式と幹也が真に求める答えであり、当作品の主題なのだ。このことは本論の前章で述べた通りである。
それにも関わらず、どうしてこれまで『空の境界』が新本格ミステリと結びつけられて評されてきたのか。それには、二〇〇〇年代初頭におけるメフィスト賞作家の台頭が関係している。
そもそも、『空の境界』を出版した講談社には、推理小説を売り出そうとする風潮がある。講談社文芸第三出版部によって、文芸誌『メフィスト』や講談社ノベルス、講談社BOXなどの出版が手掛けられており、そのどれもがミステリ要素の強い作品群を扱っている。
そして、『メフィスト』に携わる作家として、新本格ミステリの書き手と称される綾辻行人や有栖川有栖、または自ら本格ミステリ小説を書く傍ら、本格ミステリに対する評論も発表している笠井潔がいる。さらには、メフィスト賞作家である舞城王太郎や西尾維新などの作品も掲載されている。
元々、奈須きのこが綾辻や笠井から影響を受けており、舞城や西尾らとともに『ファウスト』で活動していたことも踏まえれば、『空の境界』と新本格ミステリとの間には、単なるジャンルのカテゴライズ以上の関係性が見てとれる。
まずは彼らに多大な影響を与えた「新本格派」の歴史 について簡単に整理しておきたい。一九八〇年代から一九九〇年代の日本で興ったとされる「新本格派」は、かつて本格推理小説で書かれてきた、謎解きの面白さに重点を置いた推理小説の隆盛を目指していた。一九八七年に綾辻行人の『十角館の殺人』が出版されたことを皮切りに、本格推理小説への新たな可能性を見出した日本の作家達による「新本格ミステリ」が相次いで執筆され、「本格ミステリ」の定義にまつわる評論も活発に行われた。
そんな中、京極夏彦が『姑獲鳥の夏』でデビューしたことをきっかけに、メフィスト賞が開設された。第一回目に森博嗣の『すべてがFになる』が受賞となり、それに続いて第二回目に清涼院流水の『コズミック 世紀末探偵神話』が受賞した。ここで、「新本格派」は大きな転換点を迎えることとなった。
清涼院の『コズミック』は、大胆不敵なトリックが賛否両論の嵐を巻き起こした。そのトリックについて詳細は触れないが、それは従来の本格ミステリに親しんできた作家や読者が受け入れがたい内容であった。
その一方で、その大胆不敵さに感銘を受けた人も少なからず存在しており、舞城王太郎や西尾維新といった若手の作家は清涼院の著作を絶賛している。そんな彼らの作風は、本格ミステリの様式美を重視する「新本格派」の精神から逸脱していると見做され、一連の作家達は「脱格系」と呼ばれるようになる。
清涼院や舞城、西尾らがデビューした当初は、ミステリ小説の界隈で敬遠されていたが、魅力的な登場人物や独特の世界観に惹かれた多くの読者を獲得していき、一定の地位を築いていく。
その状況を鑑みて、笠井潔のように「脱格系」を再評価する作家も現れる。そうした過程を経て、「脱格系」も新本格ミステリの系譜を辿っているものとして、認知されるようになる。
ここまでで「新本格派」の歴史を整理したが、ここでとある違和感が生じてしまう。清涼院をはじめとする「脱格系」の作家陣は、「新本格派」の異端児のように評価されていたが、その実、新本格ミステリの約束事を念頭に置いており、あえてその約束事から逸脱するようなトリックやストーリー展開を考案している。
しかし、そうした背景が奈須きのこの『空の境界』に隠されているのか。否、奈須きのこが「脱格系」の一人と称されることはないだろう。何故なら、奈須が『空の境界』に用いているのは、新本格ミステリからの逸脱ではなく、新本格ミステリのエッセンスの転用だからだ。
奈須は「新本格ミステリ」の著作に多大な影響を受けたと明言しており、『空の境界』での小川マンションのトリックやプロットの複雑な構成などから「新本格ミステリ」の要素を取り入れていることは窺える。だが、それらの行いはあくまで作品全体の一部分でしかない。それに、本論でも先述したように、やはり『空の境界』における「新本格ミステリ」の要素は付加的なものに見えてしまう。
坂上秋成は「伝奇と新本格ミステリの融合」と称していたが、『空の境界』における伝奇の要素に比べると新本格ミステリの要素が薄いため、両者が釣り合っているとは思えない。
以上のことから、『空の境界』を新本格ミステリの系譜に位置付けることは厳しいと言えよう。また、伝奇の側面がそうであったように、新本格ミステリもまた、両儀式という主人公が成長していくという教養小説的なストーリーを支えるための副産物なのだ。
であれば、『空の境界』という作品のメインストリームは一体何なのか。そこで、再び『ファウスト』の作家陣に注目してみたい。
『ファウスト』は二〇一一年九月にvol.8が刊行されてから現在に至るまで休刊している。
奈須きのこと同じく『ファウスト』で活躍していた作家は、それぞれの道で活躍を遂げている。西尾維新は『戯言シリーズ』『物語シリーズ』など、数多くのシリーズ作品を執筆しており、そのどれもがティーン世代の読者に親しまれている。
ただ、本論の論述を進める上で注目したいのは舞城王太郎と佐藤友哉についてである。
この両名は共に三島由紀夫賞を獲得している 。舞城は二〇〇三年に『阿修羅ガール』で、佐藤は二〇〇七年に『1000の小説とバックベアード』で受賞した。両作品は新本格ミステリの体裁を採用しているが、純文学にも通じる発想や視点が認められて受賞へ至った。選考委員の中では賛否両論が湧き起こったが、それでも舞城・佐藤両氏の作品には文学者として無視できない力があったから受賞することができたといえる。
この「無視できない力」というものを『ファウスト』の作家陣は持っており、それは奈須きのこも例外ではないのではないか。「無視できない力」というものこそが文学性の現れであり、諸作品の本質を現しているのではないか。そのような考えを踏まえて、次章では『空の境界』の文学性について分析していく。
第4章 「境界の物語」
『空の境界』の文学性を捉えるにあたって注目したいのは、『空の境界』のテーマについてである。奈須きのこが当作品に託したテーマに着目することで、この作品の本質を正確に捉えることができるのではないだろうか。
『空の境界』は、端的に言えば「境界性についての物語」である。
『空の境界』のアニメ化に際して行われた『ユリイカ』のインタビューで、上記に引用したことが語られている。
ここで語られていることは、両儀式と黒桐幹也の関係を主軸に、式と荒耶の対峙、式と織の在り方など、作中のあらゆる場面において想定され得る構図である。
それぞれの立場は必ずしも交わり合えるわけではない。式は半身である織を喪い、荒耶は式に敗れた。互いに譲れない信念や価値観があって、それが損なわれそうになってしまった時、両者は対立していった。
その間にはまるで目に見えない境界線が引かれていて、それが両者を隔てているようだと感じるかもしれない。しかし、奈須きのこは『空の境界』を通して、次のように訴えている。
式に代弁させる形で書かれたこの文章は、『空の境界』のテーマを的確に示している。二項対立のようにして、この世界のあらゆる事物が隔てられているように感じる気持ちは、実のところ私達人間の錯覚でしかない。
自分と相手との間に引かれていると感じる境界線というのは、実際にこの世界に存在するモノではなく、自分または相手が頭の中で想像することで生まれ得るという。どれだけ両者の在り方が異なるものだとしても、その違いがどれだけ許容しがたいものだとしても、共に同じ世界の中で生きていくことができる。
二重人格と殺人衝動という異常を抱え持った式と、至って平凡的な日常を過ごしてきた幹也が手を取り合って生きていこうとした決意。その二人の姿を通して、読み手に二項対立的な境界の空虚さを知らしめてくれる。
この境界という概念については、現代の日本文学と大きく関わっていることが吉本隆明によって語られている。吉本の主張によれば、現代の日本文学は「見えない異常と正常の間を行き来している状態」の社会を示唆しているという。
この発言は一九九二年時点のものだが、『空の境界』にも当てはめることができる。「目に見えない異常と正常を行き来している状態」については、橙子や荒耶をはじめとする魔術師の存在によって示唆されている。
社会の陰で密かに暗躍する魔術師たちの在り方は日常とは程遠く、正常とは異なる点で異常と称するに相応しい。そんな彼らとの対峙を経て、式は日常の世界(=正常)へ回帰していく。
それから、正常と異常の狭間で揺れ動く式の葛藤についても、吉本の主張と重ね合わせることができる。二重人格や殺人衝動というある種の異常を抱える式だが、幹也と出会ったことで日常の世界(=正常)という「ユメ」を見るようになる。
これらのことから、吉本が主張する「現代の文学の境界線」というものが『空の境界』にも通じていることが窺える。
ここまでの分析は比較的作品の外部に着目したものになる。これに加えて、作品の内部にも着目していかなければならない。作品のテーマやファンタジー性のある世界観については先述したが、それとは別に注目すべき『空の境界』の独自な要素が存在する。それは「作品と読者の関係」についてである。
『ユリイカ』のインタビューにおいて奈須きのこは、次のように述べている。
黒桐幹也は自他ともに普通だと称される。彼は魔術も超能力も有しておらず、魔術の世界からは半ば縁遠い世界を生きている。
類稀なる情報収集の能力を見込まれて、魔術師である蒼崎橙子の事務所で働いているが、魔術や超能力を用いる他の人物と比べると、至って平凡な立ち位置に属している。
一見すると、幹也という人物には何の特徴もないように思うかもしれない。しかし、『空の境界』の世界を読者に案内するという点で、幹也の存在は非常に重要なものとなる。
ところで、本論の一章で引用した東浩紀の『波状言論』では、奈須きのこ作品の男性キャラクターには「内面がない」という批判がなされていた 。
これはサブカルチャー批評を中心に行っているライターの更科修一郎によるものだが、この批判はあくまでノベルゲームという観点から述べたものに過ぎない。
ノベルゲームとは、簡単に言えば絵や音、映像などを加えた電子媒体の小説のことである。しかし小説とは称されるものの、ノベルゲームはやはりゲームとしての側面が強く求められる。ゲームは、プレイヤーがゲーム内の世界に没入できることが重要視されており、そのためにゲーム内のキャラクターに感情移入させる試みが多く採用される。
だが、このようなゲーム性は『空の境界』においては特に重要とされていない。むしろ、文学的に読み解くのであれば、更科の指摘は無効となってしまう。
黒桐幹也というキャラクターは「平均的なパーソナリティ」を有してはいるが、決して没個性的ではない。それに、彼が普通であろうとするその生き様はマジョリティに属するものではないことが、作中の「六章 忘却録音」で明かされる。
六章では、幹也の妹である黒桐鮮花(こくとう あざか)の視点で物語が展開していく。その中で、鮮花は子供の頃の夢を見る場面がある。
ある日、鮮花と幹也は親しい仲だった隣家の老人が亡くなったことを知る。その晩、悲しげな顔で夜空を眺める幹也に対して、鮮花は「どうして、泣かないの?」と尋ねる。
その時、鮮花は幹也が涙を流さない理由を悟った。「何かの為に涙する」ことは「とても特別な行為」なのだという。「どこまでも普通で、誰よりも人を傷つけない」ことをモットーとする幹也は「たとえ自分がどんなに悲しくても、何かの為に涙する事さえできない」。自分が普通の人間として生きていくためには、そうしなければならないのだと、幼少期の幹也は自身に義務づけていた。
こうした彼の生き様は機械的で異様に見える。それはつまり、意識的に普通であろうと努めれば努めるほど、かえって異質な存在になってしまうことを示している。
そもそも、『空の境界』の登場人物は何かしら突出した個性を有している。式や橙子は言うまでもなく、鮮花さえも魔術の才能を見出されて橙子の弟子となっている。その中で、唯一突出した特性を持っていない幹也は、やはり異質な存在として認知され得る。
普通の人間として生きてきた黒桐幹也を異様に見せることで、奈須は「でも最も普通であるっていうのはこういうことなんですよ」と読者に提示してみせた。
このことは、吉本が述べていた「不健全な、異常な登場人物たちの物語としてみても、あるいは健全な登場人物たちの健全な感覚な物語としてみても、どちらも満たされない部分がどうしても残る」という発言に通じてくる。
黒桐幹也の存在によって、作中における「目に見えない異常と正常の間」を「越境」させた奈須は、「終章 空の境界」において「この物語にはいっぱい特別な人間が出てきたけど、あなたも特別なんですよ」と語りかける。
『空の境界』の一章から七章までの物語は、魔術世界との関わりが強かった点から、読者にとっては非現実的で自分とは無縁の世界と感じさせる。それまで幹也の「案内」によって『空の境界』の世界を傍観してきた読者は、終章に到達したところで物語の舞台へと引き込まれる。
一~七章までと終章で大きく異なるのは、本文の語り口である。一~七章までの語り口は、基本的に主人公の両儀式を中心とする一人称視点になる。
さらに二・五・七章では黒桐幹也、五章では臙条巴(えんじょう ともえ)、六章では黒桐鮮花の視点も加わる。また、「境界式」の章や主人公が認知できない場面については三人称視点が採用されるものの、それはあくまで形式上の語り口に留まっている。
その流れから一転して、終章では三人称かつ多元的な視点で物語が語られる。その語り口は「神の視点」というよりも、作者である奈須きのこの視点として読むことができる。
終章では黒桐幹也と「両儀式」の二人きりの会話が終始交わされる。ここで登場する「両儀式」は式でも織でもない第三の人格である。また、「両儀式」は世界の根源に接続する力を持っており、世界の理を改変することができる。このイレギュラーな彼女は、幹也に対する印象を次のように語る。
この箇所の語りは、奈須きのこから読者へのメッセージでもある。「平均的なパーソナリティ」に対して、作中で唯一読者が共感を示した黒桐幹也が、その実「特別」な存在だったと明かされる。
それによって、自身が幹也に似ていると感じてきた読者も同様に「特別」な存在なのだと示唆することとなる。
奈須きのこの視点については、これまでの物語にも潜在している。各章の冒頭部に挿入された詩は、奈須によれば物語の「核となるヒント」 だという。この詩を挿入することで「物語全体を支配するイメージ」となり、それぞれの章のテーマを暗示させる。
このようにして潜在的に『空の境界』という物語を「物語って」いた奈須きのこは、終章において前面的に物語へ介入する。その介入によって、「あなたも特別な存在なのだ」という読者へのメッセージを訴え、『空の境界』という物語と読者との間を隔てる「境界」を曖昧なものに変えることとなる。
そして、この「境界の空無化」 という性質こそが太田克史の主張である「新たな文学へのステージ」を指し示すモノとして考えられる。
*「境界の空無化」という文言は、講談社ノベルス版『空の境界 the Garden of sinners(下)』より、笠井潔の解説『「リアル」の変容と境界の空無化』から引用した。
おわりに 「ゼロ年代」の新たな文学
以上の考察を踏まえると、『空の境界』は新伝綺小説だという評価が必ずしも適しているわけではないことが分かった。
確かに、「ゼロ年代」に『空の境界』は新伝綺小説と銘打たれて商業展開を果たし、多くの読者を獲得してきた。しかし、その理由が伝奇小説を継承する作品だったから、もしくは新本格ミステリの要素を取り入れた作品だから、と捉えることはできない。
『空の境界』は教養小説的なストーリーラインを軸に、伝奇小説的な世界観と新本格ミステリから影響を受けたトリックを掛け合わせることで、重層的な作品として形成されている。
そして、何よりも注目すべきは、式と幹也の関係に仮託した「境界」にまつわる物語だという点であろう。そのため、どの要素が多くの読者の心を惹きつけたのかは一概に定義づけることはできないだろう。
そして、当作品のテーマである「境界性についての物語」は「ゼロ年代」を経過した二〇二〇年現在においても有効だと考える。
リオタールが提唱した「大きな物語の終焉」、「構造主義」の幻想を解体した「ポスト構造主義」の台頭によって、文学の在り方が世界規模で問われ、今でもその潮流は存在し続けている。
そうした背景に加えて、近年ではスマートフォンの普及やAIの開発、またはAR・VRの研究など、テクノロジーが現実世界に干渉する機会が非常に多くなった。
それはつまり、デジタルテクノロジーが生み出す非実在的な世界が、現実世界と融和しつつあることを指し示す。このような社会情勢に置かれては、日常と非日常、正常と異常の垣根がますます判別できなくなっていくだろう。
そうした疑念に対して、『空の境界』で一つの解答が示されている。何が正常で、何が異常かを問う姿勢はいわゆる二元論的思考であり、生き方の可能性を大きく狭めてしまう。
そもそも、あらゆる物事を隔てる境界線は「空っぽの境界」でしかなく、実体を伴わないものである。実体がないのであれば、二項対立する両者の間をシームレスに行き来することは決して困難なことではない。
日常を「ユメ」見ていた式(ないし織)と特別なモノに心惹かれた幹也が、紆余曲折を経て手を取り合ったように、「解り合えない隔たりを空っぽの境界にする」こともまた、人が生きていく上での選択肢の一つとして十分に考えられるのではないか。
そして、こうした『空の境界』ないし奈須きのこが提示したモノは、「ゼロ年代」に生まれて現在に至るまで通用する「新たな文学」と称することができるだろう。
〜謝辞〜
最後に、この論考を進めるにあたってお世話になった方々への謝辞を述べさせていただきます。この段落からは、ですます調で書いていきます。
まず、大学での卒論でとんでもなく厄介な代物を書いたにもかかわらず、最後まで根気強くアドバイスをくださったゼミ担当のI教授へ。
論文の方向性が二転三転としてしまいましたが、なんとか完成までこぎつけたのはI教授がいてくださったからだと思います。この私の勇姿はぜひゼミの後輩にも語り伝えてください。
また、口述諮問にあたって、私の卒論だけでなく『空の境界』本編も読んでくださったというK教授へ。
近代詩を専門としていらっしゃるK教授には、短い期間でえげつない文量を読んでくださり、さらには真摯なアドバイスをくださったことを感謝申し上げます。卒論からさらに改稿まで行えたのは、ひとえにK教授のご助言があったおかげです。
それから、本論で度々お世話になった『TYPE-MOONの軌跡』の著者である坂上秋成氏へ。
おそらく何も土台が築かれていないであろう『空の境界』論について、坂上氏の著作があったおかげで論考を進めることができました。
Twitterで非公式RTによるコメントをくださった時は大変嬉しかったです。これからの坂上氏のますますのご活躍を願っております。
さらに、前回の初稿(実は二稿)の投稿を読んでくださって、感想までくださった思惟かね氏へ。
卒論の査定ではなく、純粋に興味を持ってくださって読んでくださったことが大変励みになりました。
思惟さんのVtuber論は大変興味深く読ませていただいております。思惟さんも奈須きのこファンということで、密かに親近感を覚えました。
そして、『空の境界』という素晴らしい作品を世に発表しただけでなく、現在でもゲーム界隈の最前線で戦っていらっしゃる奈須きのこ先生およびTYPE-MOONの皆様へ。
あなた方のコンテンツはもはや私のバイブルとなっております。月姫リメイクも心待ちにしてます。
最後に、ここまで読み進めてくださったアナタヘ。
色々と難のある論考かもしれませんが、ここまで読んでくださったとアナタにとって少しでも意義のあるモノを提供することができましたら、これ以上の幸せはございません。
これを機に、菌糸類先生と愉快な仲間たち(=TYPE-MOON)のコンテンツに触れてくださいますと、私にとっても幸いであります。既知の方も再度触れてみてはいかがでしょうか。
それでは、もうすぐ始まるFGOのレクイエムコラボを心待ちにしつつ、ここで筆を置かせていただきます。
【参考文献・参考資料】
ここでは、本文で紹介しきれなかった文献(=書籍)・資料(=Webサイト)を掲載する。
「劇場版 空の境界 公式サイト」
https://www.karanokyoukai.com/index.html
参照日 二〇二〇年五月一日
*「ゼロ年代」に関して論じている著書は数多く存在するが、本論では『ゼロ年代の想像力』(宇野常寛 早川書房 二〇〇八年七月二五日 初版発行)を参照した。
「サウスベリィの下で」原田宇陀児
初出『ファウスト vol.3』二〇〇四年七月八日発行 講談社MOOK 講談社
「怪談と踊ろう、そしてあなたは階段で踊る」竜騎士07
初出『ファウスト vol.6 sideA』二〇〇五年十一月二五日発行
『ファウスト vol.6 sideB』二〇〇五年十二月二〇日発行 講談社MOOK 講談社
「南山大学図書館報 デュナミス 8ページ目 ファンタジー文学入門」
http://office.nanzan-u.ac.jp/library/publi/item/dynamis50.pdf
参照日 二〇二〇年五月一日
*また、小谷真理『ファンタジーの冒険』(一九九八年九月二〇日 第一刷発行 ちくま新書 筑摩書房)でも同様の記述がなされていた。ただし、本稿の引用文では南山大学図書館の資料を参考にした。
『ユリイカ9月臨時増刊号』二〇一七年八月二〇日発行 四九巻十五号 青土社 「わが魂を象るもの」
「WEBメフィスト 初めて衝撃を受けた講談社ノベルス」奈須きのこ 参照日 二〇二〇年五月一日
http://kodansha-novels.jp/mephisto/nasukinoko/index.html
『空の境界 the Garden of sinners 上』奈須きのこ
二〇〇四年六月 第一刷発行 講談社ノベルス 講談社 四一七頁より、笠井潔の作品解説
『教養小説の展望と諸相』しんせい会 三修社 一九八〇年十月発行
*本書より、教養小説の定義について「ドイツ教養小説の系譜」柏原兵三 「ヘッセにおける「教養小説」問題」渡邊勝 を参考にした。
*「新本格派」の歴史を捉えるにあたって、複数の資料を参照している。
・『日本探偵小説を知る── 一五〇年の愉楽』編集 押野武志、谷口基、横濱雄二、諸岡卓真
二〇一八年三月三〇日 第一刷発行 発行 北海道大学出版会
・「新本格よ、さらば──『21世紀探偵小説』感想」小田牧央
https://longfish801.github.io/pages/2012/120826_byeshinhonkaku/
参照日 二〇二〇年三月十五日
・『探偵小説と記号的人物(キャラ/キャラクター)──ミネルヴァの梟は黄昏に飛びたつか?』
著者 笠井潔 二〇〇六年七月二八日 初版発行 KEY LIBRALY 東京創元社
・『推理小説作法 あなたもきっと書きたくなる』編者 松本清張・江戸川乱歩
「推理小説の歴史 中島河太郎」より
二〇〇五年八月二〇日 初版発行 光文社文庫 光文社
・『ミステリー迷宮道案内ナビゲート ミステリーダ・ヴィンチ完全保存版1999〜2003』
ダ・ヴィンチ編集部 二〇〇三年三月十四日 初版発行 株式会社メディアファクトリー発行