
織田信長の本当を探る!
信長って本当のところどんな感じ?
この国で、大好きな歴史の偉人ランキングで常に1位を狙う織田信長。そんな彼は、江戸時代の日本人にとっては大変な嫌われ者でした。それが司馬遼太郎の登場によって、180度評価が変わりました。信長がやってることは何も変わらないのに、司馬遼太郎はこの人の”見え方”を変えたんですね。凄い人です。このエッセーでは、世間の皆さんがイメージされている織田信長という人物について、実際はどんな感じだったのか?私の持っている”薄っぺらい”歴史の知識を使って読み解いてみたいと思います。
信長を考えてみる
ビジネス本などでは、信長は光秀や秀吉といった才人を前歴関係なく採用した点を高く評価していますね。しかし私はこれは単なる結果論であって、信長が意図的にそうしたわけではないと見ています。つまりそうせざるを得なかった面が強いと思うわけです。
信長の配下の出自を見てみると、非常にバラエティーに富んでいることがわかります。前田利家は農家の四男坊。滝川一益は忍者なんて言われることもありますが、出自が不明瞭。秀吉は今川領からの流れ者。光秀も秀吉同様、前半生が全く見えない浪人風情。土岐氏の出というのは何とも怪しい。信長は何故彼らのような”食い詰め者”を集めたのでしょうか?
基本的に彼らは自分の土地を持っていません。(利家は豪農出身ですが四男です)つまり、給料の出所が無いのです。信長はそんな彼らを”銭”で雇ったわけです。歴史に詳しい方なら、それはおかしくないか?と気が付かれることでしょう。信長は織田家の嫡男ですので、通常なら代替わりの際には父親の家臣団をそのまま受け継ぐはずではないか?と。でもそれが出来なかったんです。何故でしょうか?
うつけ登場
ご存じのように、信長は当時周囲から”うつけ”呼ばわりされ敬遠されておりました。異様な恰好をして領内を検分したり、父親の葬儀では位牌に抹香を投げつけたり。信長としては早くに死んだ父親に対して、複雑な想いがあったんでしょうね。信秀は実に有能な人物で、織田家をうまくまとめておりましたし、朝廷にも献金する等して織田家の名を全国に轟かせています。
当然、そんな信秀が死んだ時、織田家中は騒然となりました。当時の織田家は信秀が中心となり、親族が犬山や岩倉などを治める体制をとっていました。信長の叔父たちは、さぞや織田家の将来を悲観したことでしょう。うつけと噂される信長が継いだのですから。彼らの動揺は激しかったに違いありません。当主の出来は、そのまま自分たちの命に関わります。叔父たちは一斉に信長に反旗を翻したのでした。また林や柴田といった家老格の豪族たちは、こぞって信長の弟信勝の側につきました。信勝は折り目正しい武将でしたので、誰もが彼こそ嫡男に相応しいと思っていたのです。
信長は、今でいうところの”発達障害”の傾向があったと私は見ています。発達障害というと、”障害”という言葉からネガティブな印象を受けますね。信長の恰好や普段の行動は、きっと周囲の理解を超えていたと思います。でも、発達障害にはそういうマイナス面ばかりあるわけではありません。常識に捉われない柔軟な発想や、誰も思いつかないような突飛なアイデアを思いついたり、仕事を誰よりも丁寧にやったり、そういったプラスの面もあるんです。信長もその両面を持っていたんだと思います。しかし当時の常識の範疇では、信長は明らかに危険人物だったのです。ですから味方という味方が、どんどん彼の許から去って行ったのです。
しかし信長としてはそれはまずいわけです。そこで考えたのが、先に描いたような今一つ出自のハッキリとしない連中を”銭”の力で集めることだったのです。例えば利家は豪農の四男ですから、前田家の所領は有ってもそこから満足いく給金を得られません。でも信長の下にいれば潤沢にお金がもらえます。喜んで馳せ参じたことでしょう。そんなわけで、信長は仕方なくこのような食い詰め者たちを採用していたということです。実はそれが結果的に良かったんですけどね。
遊撃隊の結成?
結果的に言って、信長は土地に縛られない何処でも行けますよ的な、つまり遊撃隊的な武将たちを集めることに成功しました。実はこれが信長が戦に強かった原因の一つだと私は見ています。当時の武将は基本的に農民です。当然農作業が忙しい時は戦が出来ません。武田や上杉、北条といった大名たちはこうした豪族に頼っていたわけです。ところが信長は違いました。父親が築いた莫大な財産を惜しげもなく使って、武将を「金」で雇うことが出来たのです。彼らは土地に縛られていませんので、農作業は基本的に関係ありません。いつでも戦がOKなんです。兵隊もこんな感じで、基本的にお金で雇うわけです。だから農作業が忙しい時であっても、他の領土へ攻め入ることが出来たのです。信長がこうして兵農分離に成功したという本もありますが、それはちょっと違います。信長の時代はその走りであって、それが完成するのは秀吉の時代を待たねばなりません。信長配下の秀吉や光秀は領地から兵を徴発してますので、信長の直轄部隊はこうだった、という感じだろうと思います。ですからあくまでも信長は、その先鞭をつけるに過ぎないと考えるべきだと思います。
佐久間信盛について
余談になりますが、佐久間信盛についてちょっと書きたいと思います。先に家老クラスの武将たちは信長を見捨てたと書きましたが、何人かの例外がいました。その一人が佐久間信盛です。佐久間氏は、信長の尾張時代においてはトップクラスの動員力を有する豪族でした。そんな信盛が加勢してくれたことは、信長にとって実に頼もしかったに違いありません。彼は後に織田家で重要な役回りを演じますが、その素地はそんなところにありました。
本願寺が降伏すると、ご存じのように信長は信盛を織田家から追放します。その理由は何であったのか?まあ色々あったと思います。大きくなり過ぎた佐久間の所領を没収したかったとか、役に立たなくなったからとか、ですが実際は信盛が鬱陶しくなったんじゃないかと思うのです。あれやこれやと信長は手紙で理由をのべておりますが、実のところはそんな感じだったんじゃないかなあと。信盛はことあるごとに、今の信長があるのは自分のお陰だ、と胸を張っていたことでしょう。実際、尾張時代の信長は信盛が加勢しなければ確実に死んでいたことでしょう。最初はそれを恩義に感じていた信長も、勢力が拡大するにつれて、だんだんと信盛が鬱陶しく感じられたに違いありません。いつかクビにしてやろうと、そのチャンスを虎視眈々と狙っていたことでしょうね。それが本願寺が降伏したタイミングだったというわけです。ついでに林も消してしまえと、信長にとってはまるで在庫一掃の気分だったことでしょう。
とはいえ、佐久間氏には恩義がありますから、信長としてもバツが悪いと思っていたんでしょう。信盛の子どもを信忠の家臣として採用していますので。それを見ても、信長は書状であれこれと信盛をディスっていますが、本当は単に彼の存在が疎ましくなったから追放したんだと思います。
長篠の勝利は信長の先進性の賜物か?
結論から言います。それは無いです。鉄砲の三段打ち。今ではほぼ否定されています。だいたい3000丁もの鉄砲をあの狭い土地でぶっ放せたのかどうか?資金的な問題もありますし。長篠の合戦はそもそも、突進してくる武田の部隊を、徳川の鉄砲隊が柵の向こうで待ち受けて戦うという形で終始します。しかも田んぼのあぜ道程度の広さの道を武田の部隊は進んでくるのです。徳川の鉄砲隊の餌食になりに来るようなものです。関ヶ原のように平面で両軍が激しくぶつかり合う、そんな戦ではありません。単なる消耗戦です。もちろん武田は猛攻して来ますが、時間の問題でしかありません。武田軍は次々と有力武将が討ち死にします。勝頼は撤退を決めますが、織田、徳川連合軍の追撃にあい、ほうぼうの体で甲斐へと戻ります。
そもそも、信長は長篠の合戦を全くやる気がないのです。それは彼が最初に布陣した茶臼山の位置を見たら分かります。最前線に陣取った家康に対して、信長はかなり離れたポジショニングを行います。史跡めぐりを友人と行った際、彼はこう言っていました。
「こんなところに陣取るんだから、信長はやる気が全くなかったんだなあ」と。
信長としては徳川が潰れたら困る。だから救援に行くが、本当は嫌なんです。そういう信長の心理が、最初の布陣場所から読み取れるのは面白いですね。当時の武将たちの心理を想像してみる。史跡めぐりの醍醐味はこんなところにあると、私は思っています。
楽市楽座の正体は?
まるで信長の専売特許のような扱いですが、残念ながら楽市は信長の創始ではありません。近江の六角氏が既に楽市を行っています。「楽市」とはその名の通り、自由に商売ができる市場ということですが、それは同時に”座”というグループを形成する商人たちの既得権益を犯すことになりますので、慎重にやらないと商人との対立を生み、国内が混乱します。司馬遼太郎は、あたかも信長の領域全てで「楽市」が行われたかのように書いていますが、そんなことは決してありません。実際信長が楽市を設置したのは、美濃加納、近江安土、近江金森のたった3か所に過ぎません。ざっくり言うと、これらの地は信長が自由に何でも出来る(荒廃しているため)状態でしたので、楽市をやることによって町を活性化させる必要があったのです。例えば、美濃加納はもともと斎藤家が仕切っていた土地ですが、織田家との戦いで荒れ果ててしまったため、信長は楽市を設定して復興に尽力したというわけです。
名古屋市などは町おこしの一環として大々的に「楽市楽座」と銘打ったイベントをやったりしますが、申し訳ありませんが、実際の楽市はそんな大規模なイベントで称えられるような内容ではありませんでした。本当の楽市は、町の一角で見かける「小さなフリーマーケット」に過ぎなかったのです。果たしてそんな程度の物が、信長の主要な経済政策として謳われるべきなのか?私は甚だ疑問でなりません。
もし仮に堺のような商人の跋扈する大都市で楽市をやってしまうと、どうなるでしょう?商人たちは速やかに結託して、信長への武器売却を止めるでしょう。あらゆる物流も止まり、信長は戦が出来ず困ったことでしょう。それなら刀をちらつかせて商人たちを黙らせれば良いというのは、今の私たちだから考える事であって、あの当時、まだ周囲に敵だらけの信長の立場から考えるなら、大商人たちと協力することこそが得策なのであって、対立してメリットを得られることは何一つありません。
信州大学特任助教である呉座勇一氏は、信長の楽市政策についてこんなことを書いておられます。
信長は越前の朝倉義景を滅ぼした後、越前の中心的な市場であった北庄の軽物座に対し、旧来の特権を保証している。
つまり、信長は状況に応じて商人たちと上手く渡り合っているのです。あの信長とて、商人たちを敵に回すようなことは出来ないのです。私たちはどうしても「結果」という色眼鏡を通して歴史を読みますので、信長に対して膨らんだイメージを持ちがちなのですが、当時の信長の立場を推測しながら歴史を読むという楽しみもあって良いのではないでしょうか?
信長の資金源は?
信長の資金調達は他の大名同様とあまり変わりません。ただ領地が広いだけにケタが違います。領国からの徴税や、軍事動員をかける際の特別税である「矢銭」が基本的な収入となります。信長が大規模な戦を仕掛けられたのは、単純に考えて領国が広かったからとも言えそうですね。それが他の大名と比較した場合のアドバンテージですね。それだけたくさんの軍資金が徴収できわけですから。また寺社や商人が、乱暴狼藉の対象から外してもらうために「禁制」を得ようと、献金することもありますね。
例えば、信長が足利義昭を連れて上洛する際、その料金として他の大名を圧倒する高額な献金を要求したと言います。その実情はどんな感じかと言うと、
「細川家記」によると、境内の安全保障のためとして、大坂の本願寺に銭5000貫文の献金を要求したという。また貿易港の堺には二万貫文の矢銭を要求したという。現在の価値にすれば十五億円に近い巨額である。
堺は一度抗戦の構えを見せますが、結局は支払ったと言います。堺の商人たちは脅されることで恐怖を感じたんでしょうが、信長と対立することよりも、彼を取り込んで商売を円滑に続ける道を選んだということですね。そうやって堺の繁栄を守ったということです。信長も彼らを保護することで、茶器や武器の購入に便宜を図ってもらっていました。結果的にお互いにウインウインの関係を築いたということですね。
信長が領国の拡大を望んだのは、野望の完遂もあったでしょうが、強大な軍事力を支える資金力を確保するという、切実な目的もあったわけです。それは他の大名を圧倒する軍事力による「脅し」によって支えられていた面が強くありました。
信長は本当に「革命家」なのか?
「国盗り物語」の中の信長はまさに革命児そのものですね。中世の破壊者というか、既存の秩序を壊し新しい概念を次々に日本にもたらす偉大な人物…。
残念ですが信長は革命家でもなければ、中世の破壊者などでもありません。例えば朝廷との関係を見てみると分かります。彼は実に朝廷には気を遣っています。
ものの本などには、正親町天皇との対立が鮮明に描かれ、天皇をも手玉に取る信長像を見て取ることも出来ますが、実際はそうではありません。そもそも、信長はそんな大それたことが出来るような権力は持っていません。信長は大大名の一人ではありますが、全国政権を築いたわけではありません。信長以外にもまだたくさん戦国大名はおりました。風が吹けば、信長が吹っ飛んでしまう可能性は十分にあります。実際、光秀の凶刃に倒れていますね。ゴールしたわけではないので、まだ何が起こるか分からないのです。そんな状況ですから、利用できるものは何でも利用したい。信長はそう思っていたはずです。実際、本願寺との和睦の際に朝廷の力を借りていますよね。もし朝廷が嫌だ、といえば信長は相変わらず本願寺との死闘を続けなければなりませんでした。信長の敵はまだたくさん残っているのです。彼らは朝廷の威光をそれなりに感じています。単純に考えて、そういう朝廷を敵に回すより、味方につけた方が何かと有利になりますね。
信長が朝廷を下に見ている例としてよく目にするのは、信長が「暦」に口を出したという例です。暦は「時」を表すものです。天皇は時を管理する宗教的な存在でもあるのです。ですから暦を作るというのは、朝廷にとって極めて重要なことなのです。信長がその暦について口を出してきたのです。
「俺が使っている三島暦(朝廷が使っていないので非公認?)を使え」と。
「だって朝廷の暦よりずっと正確じゃんね」
これが信長の真意なんです。単なる親切心なんですね。でも信長は朝廷側の時を管理するという理屈がわかっていないんですね。まあ、彼お得意の合理主義というヤツでしょうか。
朝廷の作っていた暦は安倍晴明由来?の伝統的な製法で作られた実に不正確なものでした。当然、平安時代に比べると戦国時代は天文知識が増えていますので、それを元に暦を作るわけです。でも宮中では相変わらず伝統製法で暦を作りますので、実に不正確なのです。
ザックリ言うと朝廷にとって、暦は主に日食を予言するために必要でした。宮中では、日食はとても恐ろしい怪奇現象として捉えられていました。まあ、昼間に太陽が無くなって真っ暗になるのですからね。科学的知識の乏しいあの当時にあっては、当然のことでしょう。天皇を始め、公家たちはそれはそれは恐ろしい思いをするわけです。そんなものがいつ起こるのか?興味津々ですよね。だから出来るだけ正確に「いつ起こるのか?」を知りたいわけです。暦はそのための重要なアイテムだったのです。ところが朝廷の使う暦は不正確なんです。なのに作り直そうとしない。まあ色んな大人の事情ですね。
信長はそれを嘆いていたわけです。
「日食を正確に知りたいんだろ?だったら俺の使っている三島暦を使えば良いじゃん」
信長はそう言っていたに過ぎません。何も朝廷の権威を犯すために自分の使っている暦を、ゴリ押ししようとしたわけではありません。朝廷はのらりくらりとその申し出を断っていました。何故なら、暦は朝廷が造らないといけないのです。時を管理してこその天皇なのですから。
言ってみれば信長は善意でアドバイスしていたわけです。にもかかわらず、朝廷は自身のプライドを守るために、その有難い申し出を拒否していたのです。
他にも信長は朝廷のシステムに、あれこれと文句を付けていたようですが、それもまた「善意」からなされたこと。
「そのシステムもう古くね?変えちゃえよ」
と言っただけ。何も朝廷を「ぶっ壊す」ために言ったわけではありません。信長は基本的に朝廷には”優しく”接しています。その優しさが、相手には高圧的に映ったのでしょう。
信長は元々尾張の小大名。かたや朝廷は万世一系の由緒正しき家柄。たとえ武力をもってしてもその権威は比較になりません。徳川氏のように全国制覇を成し遂げたならいざ知らず、信長の生前は信長自体がまだどうなるのか全く分からない状態です。そんな信長が朝廷を右往左往させるだけの実力があったのか?いささか疑問に思わざるを得ません。
先の楽市の件と言い、この朝廷に関する信長の態度と言い、私はとても「革命家」と断じることは出来ません。むしろ非常に常識的な考えの範疇にとどまっているのではないかと思います。何度も言いますが、信長は全国制覇を成し遂げた大名ではありません。当時の全てのことを云々出来る力はもっていません。その点は十分に考慮して、信長の事績を見るべきだろうなあと思います。
織田信長と他の戦国大名との大きな違い
では、信長は全く革新的ではなかったのか、というとそうでもありません。彼と他の戦国大名との大きな違いというか、決定的な違いについて述べたいと思います。実にこれが短期間であれほどの広大な領土を獲得するに至った主たる原因だと、私は思っています。
乱暴に言うなら「宛行状」が発行出来るか出来ないか、その違いです。信長は「宛行状」が出せるが、他の大名は「安堵状」しか出せない。この違いが何であるか?それについては別のエッセーで詳しく書きましたので、そちらを参考にして頂きたいのですが、ざっくり説明すると、「安堵状」は、
「私のグループがあなたの領地を守ります」
対して「宛行状」は、
「お前にこの土地を貸してやるから上手くやれ」
という違いがあります。
信長以外の大名は基本的に「宛行状」は出せません。なぜか?例えば武田信玄を例にとりますが、彼は実力ある戦国大名の一人ですが、家臣たちと”横並び”の関係でしか有りません。土地を媒介とした主従関係ですから。それは居城である躑躅ヶ崎館の造りを見たら分かります。頭一つ抜けてるだけ。それに対して信長は、基本的に「お金」を媒介とした主従関係なので、実にドライな関係です。例えるならイーロン・マスクとその部下みたいな関係です。いつでも首を切ってやる、ですね。それは岐阜城や小牧城の造りを見たら分かります。
「お前らは俺の部下。だから俺の言う事をきけ」
という感じですよね。頂上高くそびえる天守。信長はそこに住んでいる。対して家臣は信長に見下ろされる土地に細々?と住んでいる。そんなイメージです。
何故信長は領地を宛がうことが出来たのか?メチャクチャざっくりした説明ですが、信長は他の大名がやる「馴れ合い」の戦をしません。基本的に敵は殺します。殺した相手の領地は全て信長の物。信長はその地を家臣たちに”預け”て統治させます。あくまでも信長の「持ち物」なんです。(それが出来る理由の一つが土地に縛られない遊撃隊の存在です)その時発行するのが「宛行状」です。なのであくまでも家臣たちは土地をレンタルされているだけです。いつでも返納しないといけません。だから家臣は信長の意向には絶対に歯向かえません。でも信玄のような「安堵状」しか出せない大名の場合、家臣たちが必ずしも信玄の言う事を聞くとは限りません。戦をするにも、
「兵を出して下さい」とお願いは出来ても、「兵を出せ」とは言えません。信長はそれが言えるんです。歯向かえば即クビです。会社を追われるのでなく、その名の通り殺されます。実にブラックな社長、それが皆さんの大好きな織田信長なのです。
ここで余談ですが、果たして信玄や謙信が天下を取れたか?と言われたら私は即、
「無理です」
と答えます。理由は彼らは信長と違って、戦をしても本拠地からそんなに長く離れられないからです。小田原北条氏が秀吉に歯向かった時、恐らくこう考えたでしょう。
「秀吉だって農作業が忙しくなれば兵を引くだろう」
上杉謙信の猛攻を退けたとして小田原城は難攻不落と言われていますが、それは農作業が忙しい時期になると撤退したからです。当然、北条氏もそれをねらって籠城したんですね。ところが、秀吉は一向に兵を引く気配が有りません。なぜか?
先に申しあげましたが、秀吉は既に兵農分離に成功しています。お金で兵を雇っているので、いくら農作業が忙しくなっても基本的に関係ないんです。ずっと戦をしていられます。これでは北条氏が負けるわけです。
信長も秀吉の先生ですので、これと似たような感じです。季節関係なく戦が出来ます。
信長は果たして成功者なのか?
ここからは完全に私の主観で書きます。世の中に出回っているビジネス本や自己啓発系の書物では、信長に経営を学んだり、人材育成を学んだり、戦略の立て方を学んだり、多くの点で信長を参考にしようという趣旨を見かけます。これは信長を「成功者」として見ている証だと思います。ですが私は信長は明らかに「失敗」した人だと見ています。なぜか?だって天下統一の中途で死んでしまいましたから。成功者という点でいうなら、私は断然徳川家康だと思います。各種のゲームでは圧倒的な強さを誇る信長ですが、実際の彼は結構際どい戦いを重ねてあそこまで領土を広げています。決して楽な戦いで連戦連勝ではありませんでした。それどころか、下手をすると命を落としていた場面は何度もありました。ただ言えるのは、勝ち運に恵まれていたことは言えるかも知れませんね。
例えば信長の幸運を並べてみますと、
佐久間信盛が味方に付いたこと。(弟につく可能性もありました)
桶狭間へ今川義元自身が出馬してきたこと。(義元にすれば、家臣を代理で行かせれば死なずに済みました)
徳川家康が味方に付いたこと。(家康が武田につく可能性もゼロとは言えません)
斎藤義龍が早死にしたこと。(義龍はかなり有能な武将でした)
武田信玄、上杉謙信が病死したこと。
姉川の合戦で徳川軍が善戦したこと。
これらの幸運が、信長の領土拡大を後押しした可能性はあるでしょう。運も実力の内と言われますが、しかしこれらが逆になった可能性も十分にあるわけです。そう思うと、信長の勝ち方は、長篠のような最初から勝負の見えている戦いを除けば、ほとんどがどっちに転んでもおかしくないようなラッキーな勝ち方でした。果たしてそういう微妙な戦いをして領土を拡大していった人を、ビジネスや人生の参考に出来るものでしょうか?
私の信長のイメージは、今でいう超ブラック企業の社長です。尾張地方を拠点とする小さな町工場が、様々な幸運によって短期間で超巨大企業へと成長する。一見素晴らしい事のように見えますが、さてどうでしょう?あまりにも急激に成長したので、企業が「組織」として成熟する暇がありません。社長は町工場の感覚で経営を行っているので、色んな所で支障が生じてくる。表面的には見えないが、確実に病魔は企業を蝕んでいる…。私には信長家中はそのように見えて仕方がありません。信長は常に四方を敵に囲まれており、その生涯のほどんどを戦に費やしています。ですので国内の整備に割く時間が他の大名に比べると圧倒的に少なかったのではないでしょうか?(例えば小田原北条氏のように、内政に意を払うような感じを受けません)
部下たちは常に死の危険を感じながら緊張感の連続です。戦で命を落とすならいざ知らず、信長の勘気をこうむって殺されることだって覚悟しなければなりません。そんなブラックな社長が経営する企業を賞賛する気には、私はなれません。
織田信長に学ぶことがあるのであれば、「成功者」としてではなく、「失敗者」としてそうならないための手本として扱った方が良いと思います。彼の手法は本当に「合理主義」だったのか?合理主義を突き詰めていった先には、一体何が待っているのか?そんなことを信長を通して考えてみるのも良いのではないかと私は思います。
「信長」を楽しむ
では、そんな強烈な個性の持ち主である織田信長を、私たちはどのように楽しんだら良いのでしょう?最後に私なりの織田信長の楽しみ方を書きたいと思います。
織田信長が亡くなって既に400年以上経っています。誰も声を聞くことも姿を見ることも出来ません。文字でしか私たちは信長を見ることが出来ません。これはもはや小説の中の主人公と同じような感覚なのではないでしょうか?皆さんが普段目にする織田信長という人物は、言ってみれば小説の中の登場人物と何ら変わらないと思うのです。ここまで書いて来たように、世間一般で流布している織田信長のイメージは、あくまでもイメージであって、実際の彼の姿とはかなりの隔たりがあるように思います。であるならば、例えば「坊ちゃん」に登場する「坊ちゃん」はどんな人なんだろう?どんな姿、声をしているんだろう、そんなことを想像しながら小説を読む。織田信長に関してもそんな感じで本やネットの情報に目を通す。そうやって「信長」を楽しめば良いのではないでしょうか?
また、私のようにちょっと歴史を少しでもかじったような人は、実際の信長と、一般でイメージされている信長の違いを探して楽しむのはどうでしょう?
「実際は違うんだよね」ではなく、
「なるほど。一般にはあの歴史的事件はそうやって思われているんだな。面白いな」という風に。
これまで延々と実際の織田信長はこうだった、と書いて来ましたが、織田信長は誰にとっても既に過去の人です。その過去の人をどのように見るのか、ひとりひとりの織田信長像があって良いのではないか、と私は思います。信長を楽しむための一つの材料を、今回私は提示したのだとお考え下さい。
おしまい
参考文献:呉座勇一著「戦国武将、虚像と実像」(角川新書)
川戸貴史著「戦国大名の経済学」(講談社現代新書)