もっと泣かせてあげればよかった
妖精と先生は家から自転車で20分ほどのところにある保育園に通っている。
いわゆる自然保育園で、毎日お散歩に出て、近くの里山や河原など自然の中で思う存分、五感を使って遊ばせてくれる。
少々行き渋ることはあっても、行けば「よそ行き」のお顔になって、妖精も先生も毎日楽しく通っているのだが今朝は二人とも様子が違った。
大変行き渋った。
二人とも玄関前で大泣きだ。
口では保育園に行きたくないと泣いていたけど、原因は今朝の過ごし方にあったのではないかと思っている。ここでは割愛する。
とにかく、こういうときは何を言っても火に油なので、「そうかそうか・・」と気持ち程度に慰めて黙って側にいるようにしている。
そして無理に泣きやませようとはしない、ようにしている。
赤ちゃんは泣くことが仕事だっていうけど、子どもにとっても「泣く」は大事な自己表現で心の成長に必要不可欠だと思う。
泣くことは自分の中に生まれた怒りや悲しみ不安、負の感情の表現で、外に出して(泣いて)初めて自分でも認識し、処理され、癒されていく、気がする。
これってものすごく大事なことで、この泣く行為、つまり怒りとか悲しみとか負の感情を、抑圧させたり不必要に気を紛らわせたりすることは、心が成長し強くなる機会を奪ってることと同じだ、と思う。
負の感情を処理できないと感情の起伏が異常をきたし究極的にはうつ病のような状態になる、と感じている。
大泣きする子どもの側にいると心が痛んで何とかして泣きやませたいと思ってしまうけど、グッと我慢して、彼らの心の成長に向き合いたい。
こんなことを書く背景はいくつかあるが、一つは絵描きの幼児期での後悔がある。
絵描きが生まれた当時、子どもという特殊な生命体について、私は全くの全くの全くの×∞無知だった。今も分からないことだらけだが、分からないことが楽しいと感じるまでには成長したと思う。
過去の後悔を、懺悔のつもりでこれから一つ一つ書き残しておこうと思っている。
「泣く」についても懺悔のひとつだ。
私は絵描きが生まれた時から、泣かせまいと必死で抱っこし、無駄にオムツを替えた。授乳の間隔があいてなくても乳で口を塞いだ。別に泣き声が嫌だった訳ではなくて、泣いたら泣きやませないといけないと思っていた。言い訳ではないが、当時から(今もだけど)ワンオペで実家義実家が頼れなかったこともあり完全にノイローゼだったと思う。
赤ちゃんが泣いていたら、歌でも歌ってあげたら良かったんだ。抱っこして一時間でも二時間でも(それはやりすぎか)泣くことに付き合ってあげたら良かった。
絵描きが一歳を過ぎても私の「泣かせない」という姿勢は変わっていなかった。絵描きが泣きそうになれば抱っこして不要に気をそらせたりした。彼女の中から出てくる気持ちに寄り添ってあげられなかった。あほな使命感にかられていた。もっともっと、泣かせてあげればよかった。
そうしてあまり泣かずに育ってしまった絵描きは、やはり心が少し弱いように感じる。
心は適切な年齢・段階で成長するべきことがあり、その段階を経ずに先に進めないようになっている、ような気がする。
でも、手遅れだなんて諦めない。
時間はかかるけど、たまに出てくる絵描きの負の感情に寄り添っていきたい。
まだまだ、たくさん泣いてほしい。
ちなみに今朝の妖精と先生の大泣きはタイムオーバー(これ以上遅れると保育園の散歩に間に合わなくなる=園がもぬけの殻になる=休むことになる)を迎えたので、二人を担いで園に向かった。(こんなに泣いてるんだから一日くらい休ませてあげようか…という葛藤ももちろんあった…何だかんだ毎日悩んでいる。)
なんだか締まりの悪い終わりになってしまった。