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話題の「男性オンリー」国交相の講座を考える
国交相の都市計画は健常者の男性によってのみ作られている、都市計画にかかわる女性はいないのか、などと非難されているこの講座。
公務員アーバニストスクールのカリキュラムを確認してみたが、個人的にはひとつひとつの講演は面白そうで、受けてみたいと思えるものもある。
では、この問題の根本はなんなのか?
私の感じるところを書いていこうと思う。
女性がいないだけが問題か?
この講座の目的は、以下である。
人中心の居心地が良く豊かなまちを実現していくため、「つくる」視点から「つかう」視点に重点をシフトし、官民連携の考え方や公共空間の活用事例を学ぶことにより、都市行政の専門性と都市生活者の視点をあわせ持つ「アーバニスト」としての素養を高め、当事者として主体的に考え実践していく公務員を育成する
「つくる」から、「つかう」に視点を変えるということは、生活者の多様性にももちろん目を向ける必要がある。
ジェンダーの観点から、「講演者は男性だけと言うが、これだけ居ればトランス女性が1人いてもおかしくない」などの意見があるが、どうだろう。
女性が参画していれば、この問題は全て解決なのだろうか?
今の時代に「女性目線」と言って思い起こされるのは、まだまだ子ども、介護などのキーワードだろう。
妊娠による体の変化によって社会生活にどんな不都合が起こるかなどは、妊娠・出産経験者しか体験できない。
女性だからって誰もが体験する・しているわけではない。
防犯の面などもそうで、女性が1人で夜道を歩くと危険だと言うけど、私自身は(幸運なだけだが)危険な目にあったことはない。
「同じ女性なんだから、後をつけられて怖い思いをした人の感情よくわかるでしょ?」と聞かれたら、、、?
同様に、車椅子の方の生活のしにくさというのは想像はできても、私は身をもって経験していない。
今回は女性の講演者がいないことがクローズアップされてしまっている。
しかし、「健常者の男性しかいないじゃないか」という批判は、「さまざまな特性やバックグラウンドを持つ主体が体験ベースで語る機会」が乏しい、と世間が感じてしまっていることに起因しているのではないだろうか?
女性、障害者、子どもの代弁者を
今回の登壇者が全員男性なのは、土木の分野に女性が少ないことが原因の1つになっている。
こればかりは、今日明日でいきなり女性の第一人者が増えるわけではないのでどうしようもない。
しかも、女性が講演を行ったとしても、必ずしもユニバーサルデザイン、「女性に優しいまちづくり」に触れるわけではないと私は思う。
女性だって体力のある人はいる。妊娠、出産を経験しない人だっている。反対に、体力がない男性ももちろんいるし、夜道で危険な目に遭う男性がいるのだって至って普通のことだ。
私たちも、人間はそれぞれが個別の主体である、という意識が抜け落ちているのではないだろうか。
では現状ではどうしたらよいか?
私は単に女性の割合を増やすのではなく、講演テーマにそのような題材を持ってくるのが筋だと思う。
例えば、ユニバーサルデザインなどを推進している団体は数多くある。
健常者の男性がその代表だとしても、気持ちに寄り添い、ハンディキャップや困難を抱える人が生活しやすいデザインを追求することはできるはず。
まさにうちの会社がそうだ。
男性の保育者もいるし、管理職もいる。
しかし、困難を想像して、子どもやその母親、現場の保育者に真摯な対応をすることはできる。
取材などを通して講演内容を組み立て、困難を抱える人々の声を届けるメッセンジャーとなることで、直近の課題に向き合うことはできるのではないだろうか。
「理解者がいない」と悲しむ方を減らすために
もちろん、「表題にはないけれど、講演ではその話もする予定だったのに、、、」と思っている講演者もかなりいると思う(笑)
もし本当にそうだとしたら、「この中に女性の意見を反映させてくれる人は1人もいない」と思わせる告知になっている、ということではないだろうか?
ならばそれは完全にプロモーションの問題で、報道資料やカリキュラムにもっと詳細に情報を載せ、登壇者のキャリアも丁寧に紹介することで解決できる面もあるのでは。
例えるなら、学校のいじめ対応。
「先生は学校が好きな人がなる仕事でしょ。実際、いじめられっ子の気持ちなんてわからないから、本当に寄り添うことなんてできないでしょ」
こんなふうに感じてしまう親や保護者もいる、というような。
私はマイナーな存在かもしれないが、その「いじめられっ子」だった教員免許保持者なので、その思い込みは否。
でも、これに分類される人は全員こんな特性を持っているという考えが先行することは、どうしてもあるのだ。
講座のチラシは「ものすごいメンツが来ますよ!」というのを前面に出したかったのかもしれない。
でも、どんなバックグラウンドを持ってその話をするんだ?ということが(少なくとも私は)気になるし、
そのほうが受講者も助かり、誤解も減るのではないだろうか、、、。
体験者の声を直接届ける場を
だからって、ずっとこのまま「代弁」でよいとは思っていない。
「問題を当事者が語る」ことの重要性は見逃してはならない。だからこそ今、代弁者が視野を広く持って、誰かの苦しみを理解し、当事者とその意見を壇上に上げつづけなければいけない。
そして、「理解者が1人もいない、なんてことは絶対にないんだ」と、苦しんでいる人に知ってもらわなければ意味がない。
誰かに尊重されることは自信に繋がり、「自分の声は届くんだ」という実感があると行動ができるからだ。
そうやって徐々に議論の場を開放していくことが必要だと思う。
この先いろいろな個性を持った人材が、それぞれに輝ける場所があると良い。
それが本当の共生なのでは?と考えつつ明日も仕事へ行く。