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サン=テグジュペリ『人間の土地』の奥行き

まだ肌寒かったころ。
マリー・ローランサン展に行って感動に包まれた後、思いつきで日本橋の丸善に向かった。文化的な刺激をもらった良い日には、本屋をぶらぶらしたくなる。

古典文学コーナーを物色し、あれやこれや眺めていると「堀口大學」の文字が。

つい1時間前のローランサン展。彼女と堀口の親交についての解説があったな...と超新鮮な記憶が蘇る。

今日、このタイミングで堀口大學に出会うなんて運命としか思えない!結局、購入を悩んでいた他の本も引っ掴んで、予算オーバーでレジに向かうことになった。

そんな出会いから早3ヶ月弱。すっかり積読にしてしまっていたのをなんとか読破した。
内容は正直めちゃ難しかったが、かなり好きな系統だった。

喧騒から隔離され、そこで見る景色

このエッセイで一番こころに残ったのは、静寂のなかに踊る炎の描写だった。

貨物艙から、商品の入った五、六の箱を取り出して、ぼくらはまずそれをからっぽにし、円形に並べて、そしてそのおのおの奥に風をよけかねて危なげにちらつく小さな蝋燭を一本ずつともした。こうして、砂漠のただ中に、地球の裸の生地の上に、世界の初年のような人気のなさに、僕らは一つの人間の部落を作り出した。

『人間の土地』僚友

これを読んだとき、静岡にある奥大井湖上駅を訪れたときのことを思い出した。

森林に囲まれた湖だった。
対岸に架けられた鉄橋の上にも
ぽつんとある無人駅にも
誰もいなかったあの日。

真っ青な水面に日差しがまっすぐあたって
ちらちら反射していた。

「たとえいま世界が滅びようとしていようと
私たちには知る由もないね」と、
静寂のなかに居て、
その世界の君主になったような錯覚があった。

それはたしかに錯覚であり、
一方で事実でもあったように思う。

煩わしさから隔離された環境で世界のあり方を見つめていると、目の前の事象の美しさがより一層心に染み入る。

創造によって世界と繋がれる人々

『人間の土地』では、その土地に住まう(人間を含む)いきものたちと、その暮らしへ心を寄せること。
つまり一般化された物事のなかに個別の事象を認めるというプロセスの結果、愛着や共感が生まれるということについて、何度も触れられていた。

エッセイの最後には、「眠りっぱなしにされている人間」に焦点が当てられている。

労働服に包まれ、窮屈な眠りのうちに折れ曲がっている肉体、彼は粘土の一塊のように見えた。...この同じ男女が、ある日知り合ったのだった、そしてたぶん、男のほうが、女にほほえみかけたのであろう。...ここまでもっぱら不思議なのは、彼ら両人が、いま見るような、粘土のひと包みに変(な)ってしまったということだ。

『人間の土地』人間

近代化の大きな波に逆らえずに創造の喜びを失った人々の姿からは、人を過度に一般化し単純に処理することの残酷さが垣間見える。

宮崎駿の解説「空のいけにえ」から

飛行機も目的ではなくて、一個の道具なのだ。鋤のように、一個の道具なのだ。

『人間の土地』より「飛行機」

飛行機は我々人を空へ誘ってくれる。人間が抱く「空への憧れ」を突き詰めると、その正体は何を意味するのだろう?

ルールの無い「自由な空間」への憧れなのだろうか。
だとすれば、宮崎駿の言うところの「線がいっぱい引かれている」制限だらけの現在の空はどうだろう。

少なくとも私がいま空の雄大な姿を眺めるとき、子どもの頃に考えた「空に行きたい」とは全く違う視点で思考を巡らしているように思う。

さいごに

このエッセイでは、「世界から隔離される(状況に身を置く)」、逆に「世界とつながる」、そして「世界の姿を俯瞰する」サン=テグジュペリの3つの経験が密接に絡み合っていた。
文章自体がものすごい奥行きになっていた。

サン=テグジュペリといえば『星の王子さま』。
と言いつつ、一度も読んだことがない(文学部なのに...)。これを機に手に取ってみようと思う。


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