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スパルタそろばん塾

『8月8日はそろばんの日』
 小学生の頃通っていたそろばん塾の、壁に掛けられた日めくりカレンダーの中の言葉だ。そろばんをはじくパチパチという音と8をかけたらしい。どの日をめくっても、そろばんにまつわる標語のようなものが書かれてあった。

 木造一軒家の玄関を入って左、十畳ほどの部屋が教室だった。畳の上に長机が並び、前方に教卓、後方の壁にはベニヤ板で作られた番付表があった。番付表には序ノ口から横綱までの各階級の横に生徒たちの名前の木札が掛けられており、そろばんの上達度が知れた。私は6年生まで通って前頭止まりだったと思う。

 先生は当時恐らく七十前後で、大変厳しい人だった。なかでもそろばんに向かうときの姿勢や所作には特に厳しかった。背筋をピンと伸ばして正座し、計算を終えて御破算にするときは下の位から上の位へ向けすーっと親指と人差し指を走らせ珠(たま)を上下に戻すよう指導された。もしそろばんを立てて御破算にしようものなら、

「そんな下品な真似するな!!!」

 と凄い剣幕で怒られた。子供としてはそろばんを立てたときにチャッと珠が鳴るのが小気味良かったし、それがなぜ下品なのかわからなかった。金勘定する姿は唯でさえ卑しく映るのだから、余計な動作や音を加えず静かに珠を戻しなさい、ということだったのかなと今は思う。一瞬でチャラにするのもよろしくなかったのかもしれない。

 番付表も問題用紙も先生の手作りだった。読み上げ算の問題は先生自ら読み上げて録音したカセットテープが何本もあった。
「願いましてぇぇは、~円なぁぁり~円なぁぁり~円なぁぁり」
 と歌うような声は、難易度が上がるほど桁数もスピードも増していったが少しも澱まず、その声を無心に追いながら珠をパチパチとはじくのはわりと楽しかった。

 常に口角は下がったままで笑ったり褒めたりすることのなかった先生だが、満点をとった生徒には『たいへんよくできました』と彫られた桜型のスタンプを押した小さな紙をくれた。その紙を集めるとちょっとした景品と交換してもらえるのだ。お菓子や動物の形をした消しゴムや色とりどりの鉛筆が煎餅の空箱の中に用意されていた。先生は文具屋でへの字口のままそれらを選んだのだろうか。

『そろばんは 頭の中の 勘ピューター』
 例の日めくりカレンダーの中の一句だ。この句の通り、そろばんを覚えた者の頭には計算するときそろばんが現れ、道具を使わず暗算できるようになる。私も今、頭の中のそろばんをはじいて誰にも悟られず金勘定している。手が動かなくなっても持続可能な計算方法。これはなかなかの財産だ。

 既に故人となった先生に、今更ながらお礼を言いたい。

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