45:海と父を見つめる僕。
父は多くを語らなかった。父は、自分の腕のみで叩き上がってきた職人だった。
そんな父は意外にも、週に2回のサーフィンが日課だった。昔はライフセービングの専門学校に通っていたらしい。バブルの名残だと切なく笑う。
早朝5時に、ハイエースに荷物を詰め出発。僕は父について行った。なんでついて行くようになったかは覚えていない。普段は話さない父を知りたい一心だったのかもしれない。
海に行く前、決まって立ち寄るコンビニ。近くにコンビニができる前、7キロ先のそこが1番近かった。そこで父は甘めの缶コーヒー、僕はソーセージにノリを巻いた、いわゆるスパムにぎりのようなものを買って貰っていた。僕の大好物だった。
海に着く。ウエットを着て準備するともう6時前。父はボードを担いで繰り出す。僕はそれをただ見ていた。子供だからと馬鹿にされたのを少し気にしながら。
朝6時。渡辺篤史の建物探訪が流れる。海辺でワンセグは最高に綺麗に見れる。助手席に足をかけて、にぎりを食べながら、海とカーナビを交互に見る。意味が全て分からないテレビと意味もなく美しい、夜明けの海岸線を見ていた。
別にサーフィンをやりたかったわけじゃない。テレビも別にそうでもない。昔からそうだったと今思う。中途半端な人生だった。もっと有意義に本を読んだり、早朝ランニングしたり、やれることはあったと思う。
半ば、適当、何となく。鮮烈な理由も、青天の霹靂も味合わず、今日まで来てしまった。
ただひとつ思う。何故父のサーフィンについて行ったのか。
父が海から上がる時、とってもいい顔をしていたのだ。寡黙な父の聖なる時。まるで過去の自分を忘れない為に、そして鮮烈に思い出すように、いい顔をしていた。車に近づくにつれ、いつもの父に戻っていく。厳格な父の再登場だ。
僕はそれが好きだったのかもしれない。父を別の人類に変化させる、晴天の海に。
海はきっと今日も父を乗っけて、輝いているのだろう。