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この世は最近、中途半端なものを嫌う。 何か完璧な人間を探している。 完璧なものを所望する。 美しいものを祀り、飾り 美しいヒトを世界の頂点に君臨させる。 その人以外、最高のヒトにはなれないのに、 それになろうとする有象無象が、 果たして幸せなのか。
最近、言葉が浮かんでこなくなった。 仕事を辞めて、家族と過ごすようになり、 つくづく恵まれていると感じるこの頃である。 自分にとってこのnoteに投稿してきた、文字はなんだったんだろうか。 気持ちを文章化することは、整理整頓を担っていたと思う。 自分のしんどい気持ち、どうしようも変え難い状況。 不安を文字に起こしていたからこそ、今文字が書けないのである。 消えていく不安や問題を手繰り寄せて、 無理やり文字を書き出すのも、 理に反している。 文字はどこへ行っ
頭の中、カオスが溜まると文字を書き出す。 言葉は、自分の不透明さを描くのにぴったりだ。 誰にもみられない。自分だけの掃き溜めも、 もう随分と増えたものだ。 ストレスは時に強烈な興奮剤になりうる。 殻にこもってばかりいては始まらない。 それに打ち勝とうとして初めて未来は見えてくる。 泣きたいのはこっちの方だ。 ただもう泣くのは飽きた。 だからもう泣かない。 今日も、これからも、 カオスを吐き出す。
先は遠く、ぼやけている。 今日はメガネを忘れた。知り合いの顔すらわからなかった。 何もつけずに外に出たのは久しぶりだった。 大学の友人も同じゼミの人も彼女もぼやけている。 見えないことがこんなにも幸せだとは思わなかった。 物体の輪郭が曖昧になり、絵の具のパレットのように歪み混ざっている。 いつも使う道だからいいものの、 知らぬ土地ではこのままではくたばってしまいそうだ。 落ち着く。 破滅の予感とともに、落ち着くのだ。 周りの目が気になる人にとっては、一枚絵に
夜、それは私が一番落ち込む時間。 暗くて重い世界は私の内面まで入ってくる。 寂しさを紛らわすだけなら、誰でもいいはずなのに。 歌の歌詞がいつになっても離れていかない。 昨日の帰り道、うざいと思ってしまった。 なんでだろう。愛しているはずなのに。 言葉にされると気持ち悪かった。 本気なのか、妥協なのか。 彼の輪郭が曇った。 窓の外には煌びやかなネオン。 私を呼んでいる気がしてならない。 気楽に生きるのは、悪くないの。 赤マルの匂いにも慣れてきた。 ああ
どうも私はこの類の書き物、 「日記」が続かない。 仕事を辞めて一週間。会社に入ってから使う予定だった、メモ帳を代わりに、日記を書くことにした。 自慢ではないが、私はこの日記を続けられた試しがない。 今までで3回も失敗している。 1回目は専用の日記帳。 連絡帳をよく忘れる子供だった私に、追加でもう一個デイリーをつけるのはしんどかった。二日かいて引き出しの奥に。 2回目は手帳。 結局書くことがない部分にせっかくだから日記を書いてみようと試みた。しかし、あまり見ないそ
こんにちは、久しぶりにエッセイを描こうと思います。 突然ですが、私は千葉のとある田舎町出身です。 今は都合でここに帰ってきています。 ゆったりとした時間経過、自然に囲まれまくっているこの町に戻り、 ただただ懐かしい気持ちを感じております。 最近は、毎朝散歩をするのですが、 その道すがら、少し花びらが散った、 いわゆる葉桜を見つけました。 ピンク色の花びらが少し落ち、 黄緑色の葉っぱが映えだし、 蛇苺の色をした花弁が、少ししぼみ出していました。 葉桜を見ると、私はいつも
大きな追憶の渦に飛び込む。 機械生命体を二体携えて。 図書館の古文が並ぶ 列の突き当たりの 本棚に突き進む。 体の形のまま本が押し出され、 奥の世界へ。 そこはパラレルワールド。 みんな空が飛べて、少し赤い世界。 ずっと夕焼けのような世界を、 なにかの使命を持って飛び回る。 きっと向こうにも事情があるんだろう。 変な夢を見た。
うちの実家の家族写真です!昨年の3月に生まれ、今もすくすく育っております。 現在私は実家を離れて過ごしておりますが、帰省するとよく頭突きして甘えてきます(特に後ろのお母さんが)。 子供たちも人懐っこく楽しくいつも遊んでます。 やっぱり自分の家の猫が一番可愛いというのは、不動の理念ですね。
文綴る 伝う涙と雪化粧 ひとえ幸せ 文と知るらん 意味もなく、悲しくなるのだ、 彼女を見ていると悲しくなる 涙が出るのだ 切ない気持ちをどうしたらいいのだろうか 生きていくことは苦しいこと 1人で生きていくことが、 この無限地獄を進む強力な指針であると思っていた。 なんで彼女はここまで優しいのだろうか。
この世は年寄りが多すぎる。 年寄りが多いということは、様々な人生観を享受してくれるとも思えるが、 どうしようもない年寄りもいるもんだ。 電車のドアを蹴飛ばすおばあさんに、 ワンカップを投げつけるおじいさん。 昔話じゃ性格破綻で話にならん。 今はもしかしたら仙人のように、 長生きした人生訓を話してくれる人も少ないのかもしれない。それか多すぎて見つけられないのかもしれない。 「お年寄りは敬わなければいけないよ。」 「お年寄りを大切にしなさい。」 お年寄りの数が子供の数を
キーボードから放たれた一文字が誰かを苦しめる フリックしたその言葉が誰かを救っていく 誰も意図はしてない、印象操作は偶発的。 だからタチが悪い。 もう二度と左右されたくなくても、 言葉は軽々しく現れる。 僕達は私たちは逃げ惑うしかないのか。 素人のプロパガンダに加担していいのか。 吐き出す言葉は人を作る。
記憶を整理する。 進むといつか、壁にあたる。 エッセイ、自分の考えを膨らませて書くとき、 過去を振り返ると同時に、大きな壁にぶつかる。 自分史を探す、思い出を膨らませて、 そのストーリーの根源を探すとき、 全く進めない記憶の壁のようなものが存在する。 多かれ少なかれ、その壁は、 過去のトラウマ、恐ろしい感情で形成されたブロックだ。 中々進めない。 誰かに傷つけられたこと、 自分を傷つけたこと、 その憎悪と悲しみが僕をとどまらせる。 整合性を保ったまま
当たり前。 僕はこの言葉によく苦しめられてきた。 「しっかりしていて当たり前。」 「モテなくて当たり前。」 「頭が良くて当たり前。」 他人から言われたこと、自分で自分に暗示したこと。 それは、気付かぬうちに僕を追い詰めていた。 他人が決めた自分になるために、 自分自身に暗示してきた。 積み重なった当たり前は、 僕をがんじがらめにさせた。 僕は気づくことも今までできなかった。 休日、僕はいつも動けなかった。 「休日勉強していて当たり前。」 「街中で見