大江健三郎『万延元年のフットボール』
大江の小説からはペニスの臭いがする…というのは似非共感覚者の妄言なのだが、でもなにかがある。それは過去の再演、兄弟の対立、都合良く順繰りに新事実を明るみに出す狂言回し、循環しつつ再生へと向かうプロットという構成の巧緻を横溢する。苦悩と恥がふうわりと臭うのかもしれない。ペニスは暴力でないから。
暴力、と書いてそれから。暴力を突き詰めようとするこの小説で、暴力は何層にも渡り展開される。子供が戯れに投げた石が当たって視力を失うこと、デモのときに頭を殴られて頭蓋骨が割れること、激化した一揆で片端から人が殺され犯されること、黒人が焼き殺されること、自分の排泄物を靴の先で蹴ってみようとした子供が母親に殴られること、精神安定剤を大量服用して常に微笑みを浮かべる患者達の腹部をわけもなく強打すること、あるいは「白痴」の妹との近親姦。
恥もまた複数化する。それは破壊の不徹底であり、蔑んできたものへの依存であり、みずからの地獄と対峙せずに曖昧な不安を現実的に生きるような態度でもある。このような恥が破壊と暴力を要請する。そして多くの鬱屈し、扇動された者は恥の中に帰る。
何を償えもしない罪悪感を抱いて悪夢ばかり見て、自らの過去につらなるヒロイズムを徹底して否認し、おそらくヒロイックな何か――それを言えば自殺するか殺されるか発狂するしかないような「本当のこと」の引き受け――を執念深く恥じ入らせようと試みる語り手に私は自分を重ねる。穴ぐらに入り込んで自分のことを精一杯深刻にするようなところに。この小説は、自らをそのような人間であることを覚知して終わる。
だんだん書けなくなってきた。「本当のこと」をめぐって交わされる問答のなかで、本作唯一の自己言及的な箇所がある。気になるから挙げて終わる。
フィクションの枠組をかぶせれば、どのように恐ろしいことも危険なことも、破廉恥なことも、自分の身柄は安全なままでいってしまえるということ自体が、作家の仕事を本質的に弱くしているんだ。すくなくとも、作家にはどんなに切実な本当の事をいうときにも、自分はフィクションの形において、どのようなことでもいってしまえる人間だという意識があって、かれは自分のいうことすべての毒に、あらかじめ免疫になっているんだよ。それは結局、読者にもつたわって、フィクションの枠組のなかで語られていることには、直接、赤裸の魂にぐさりとくることは存在しないと見くびられてしまうことになるんだ。そういう風に考えてみると、文章になって印刷されたものの中には、おれの想像している種類の本当の事は存在しない。せいぜい、本当の事をいおうか、と真暗闇に跳びこむ身ぶりをしてみせるのに出会うくらいだ。
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