しづかに、モイル (Silent, O Moyle, )私訳
しづかに、モイル
しづかにモイル、轟く水よ
風よやすらかに乱れてはならぬ
悲嘆にくれしリルの娘が星ぼしに
鳥に変じて彷徨へるおのが苦難をささやけり
絶唱をへし白鳥も羽をたためる闇のなか
いつかやさしき眠りへつかむや
天上の鐘のやさしく鳴りわたり
いつか吾を恐ろしき地上より召さむや
かなしやモイレ、しのび泣く波よ
この身は蝕まれたる運命
祖国エリンも眠りにしづみ
夜明けの光のなほ届かざる
日の光のどかに湧きいで
いつかこの地を満たさむや
天上の鐘のやさしく鳴りわたり
いつか吾をやさしき野辺へ召さむや
Silent, O Moyle
Silent, oh Moyle, be the roar of thy water,
Break not, ye breezes, your chain of repose,
While, murmuring mournfully, Lir's lonely daughter
Tells to the night-star her tale of woes.
When shall the swan, her death-note singing,
Sleep, with wings in darkness furl'd?
When will heav'n, its sweet bell ringing,
Call my spirit from this stormy world?
Sadly, oh Moyle, to thy winter-wave weeping,
Fate bids me languish long ages away;
Yet still in her darkness doth Erin lie sleeping,
Still doth the pure light its dawning delay.
When will that day-star, mildly springing,
Warm our isle with peace and love?
When will heav'n, its sweet bell ringing,
Call my spirit to the fields above?
音楽
補足
「Silent, O Moyle」はアイルランド詩人トーマス・ムーア(1779~1852)の曲。詩のみの場合は「The Song of Fionnuala」(フィオヌアラの歌)というタイトルで、「Silent〜」は曲としてのタイトルになります。
ムーアは「夏の名残のばら」や「庭の千草」の作詞者でもあり、アイルランドの伝統的メロディーに詩をつけた本を出版しています(参考)。
男女問わず多様なアーティストが歌い、ジェイムズ・ジョイスの小説『ユリシーズ』でも辻音楽師のハープによる演奏シーンが出てくるなど(参考)、ポピュラーな曲です。
なお、タイトルのMoyleとは北アイルランドとスコットランドの間の海域を指します。後述しますが波の激しい、荒れやすい北方の海域と考えてよいでしょう。
第1パラグラフ、3行目に"While, murmuring mournfully, Lir's lonely daughter"とあります。リルの娘(Lir's lonely daughter)とはケルト神話『リルの子供たち』の登場人物です(noteで翻訳を見つけた際はびっくりしました……!)
リルの娘の名はフィオヌアラ。フィヌーラ、フィノーラなどと記載されることもあります(上記リンクではフィノーラ)。彼女は義母イーファの呪いによって900年の間、3人のきょうだいとともに白鳥に姿を変えられ、彷徨う運命を負わされます。
呪いが解けると予言された婚儀の日、神話の時代が終わりアイルランドにキリスト教の鐘が響いた日に、フィオヌアラとそのきょうだいは美しい歌声とともに現れます。呪いが解けた彼らは老人の姿となり、死んでしまいます。
『リルの子供たち』はアイルランドの伝説の中でも有名なもので、歌やオペラ、小説、戯曲など、アイルランドの芸術家によって多くのモチーフ作品が作られています(参考)。
「Silent,O Moyle」が上記で引用した、荒れ狂うモイルの海でフィオヌアラが歌うシーンを念頭に置いているのは明らかでしょう。
第2パラグラフ1行目に”When shall the swan, her death-note singing,”とあります。
death-note singingとはいわゆるスワンソング、死の間際の美しい歌のことと思われます。引用した通り神話でも、白鳥に変えられたフィオヌアラはきょうだいと美しい歌を歌います。白鳥は両羽の中に顔を差し込み眠るので、2行目の"Sleep, with wings in darkness "はこれを念頭に置いた表現でしょうか。
ここでは(キリスト教の)神の救いへの望みが歌われていますが、フィオヌアラはキリスト教により救われることが呪いとともに予言されており、彼女の内心の呟きが歌詞となったという体裁に読めます。
一方、第3パラグラフ3行目"Yet still in her darkness doth Erin lie sleeping,"のErinとはアイルランドの(女性)擬人化名称。第2パラグラフの白鳥、ひいては第1パラグラフのリルの娘が、アイルランドのイメージと重ねられています。
これは第四パラグラフにおいては同様で、ここでは神話の時代を抜け出しキリスト教の鐘が響いたアイルランドと、イギリスの圧政から抜け出したアイルランドが重ねられています。
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ウィリアム・バトラー・イェイツやフランシス・レドウッィジが生きた一次大戦前後の時代、アイルランド独立運動と連動した芸術家たちの作品において、アイルランドは老婆に変えられた乙女(Caitlín Ní Uallacháin)として、しばしば表象されました。
発端はイェイツの執筆した戯曲「カスリイン・ニ・フウリハン」。この戯曲では婚礼前の青年の家に謎の老女が現れます。老女の歌を聞いた青年は彼女を追うかのようにアイルランド解放運動へ加わり家を去り、婚約者は取り残されてしまいます。Caitlín Ní Uallacháinのモチーフは、その後もアイルランド人作家によって利用されていきます(参考)。
醜い姿に変えられた乙女というモチーフは東西問わずよく見られるものですが、Caitlín Ní Uallacháinは愛国心による死を厭わず求める、ファム・ファタールとしての「祖国アイルランド」と言えるでしょう。戯曲の老女はイェイツが繰り返し求婚し詩にも書いた、革命家かつ女優のモード・ゴンがモデルで、彼女は「カスリイン・ニ・フウリハン」の老女を演じています。
1779年生まれのトーマス・ムーアは、ウィリアム・バトラー・イェイツ(1865生)、フランシス・レドウッィジ(1887生)から見れば、ほぼ一世紀前の人物です。イギリスとアイルランドを頻繁に行き来し、ジャガイモ飢饉(1845-1849)の末期にイギリスで亡くなった彼は、飢饉と移民で人の減っていくアイルランドを間近には見なかったでしょうし、アイルランド自治の動きが高まりだす1870年代も知りません。
ムーアの書いた詩による楽曲「Silent, O Moyle」におけるリルの娘は、ひとり己の置かれた状況を嘆く描写しかされません。青年を解放運動に誘うこともなく、女王のように歩くこともない。無力で受動的な存在です。
しかし「カスリイン・ニ・フウリハン」同様、リルの娘もアイルランドの擬人化として表されたものです。2人はともに本来の姿を失った存在、他者に奪われた存在であり、かつ、男性作家が産みだした女性像という点においても共通しています。
こうした、独立前のアイルランドにおける「祖国アイルランド」に重ねられてきた表象のあり方を念頭に置いたとき、後年のいわゆる「ケルト・ブーム」において、例えばエンヤやケルティック・ウーマンなど、聖歌隊経験のある清楚、幻想的などと評されるソプラノシンガー達がアイルランド音楽の一側面としてのイメージを作り上げ、世界中に受け入れられていったのは皮肉のような気もしますし、当然のような気もします。
しかしそうした表象が産まれた背景には、どちらの作者の中にもアイルランドの現状への疑問があっただろうことも確かです。
イェイツ逝去の年に生まれたシェイマス・ヒーニー(1939生)は1979年、ムーアの作品について、'"too light, too conciliatory, too colonisé"……すなわち「軽すぎる、(宗主国に)融和的すぎる、植民地化されすぎている」がゆえに、現在のアイルランドは彼を国民的詩人とはしなくなったと講演で述べています(参考)。
イギリスからの独立によりアイルランドが(カトリックの教義と結びついた)一国家としての文化・独自性を追求した結果、イギリス支配下にあった時代の自国の詩人(の、作品における弱々しい自国像)を否定する姿勢は、恐らく今なお複雑な形で存在しつづけているのではないでしょうか。