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エッセイって何だろう

僕の書く文章は、これと言ってジャンルを気にせず書いて、正直なところ、ルールや形式のようなものを知らずに、まさに徒然なるままに書いています。

作家の秋谷りんこさんの投稿にあった“問い”は、多くの人が同じように悩んでいることでしょうし、僕もそうです。改めて考えてみたいことだったので、僕なりの答えでしかないことを承知で、書いてみることにしました。

僕のプロフィールにある「エッセイスト」を名乗り出したのは、毎日更新が1年を経過したあたりのことでした。

エッセイらしき文章を毎日書いているから、エッセイストって言ってみた。という感覚でプロフィールを修正し、そのあとは周年を迎える節目の時期に、どんなエッセイストか、みたいなものを考えながら修正しています。

修飾のために使っている言葉は、これまで僕のエッセイを読んでいただいた方から贈っていただいた言葉を採用しています。当時の喜びを思い出させると共に、自戒も込めて。

肩書きのように書いているため、稀に「エッセイストのお仕事されてるんですか?」と問われることがありますが、仕事ではありません。そんなこともあるので、地方公務員であることも併記しています。


僕がエッセイを意識して書くようになった、一番の拠りどころは、パスカルによる「パンセ」の一節「人間は考える葦である」というあまりにも有名な言葉でした。端的に、“書いていいんだ!”と思えたのです。

同時期にモンテーニュという作家が「エセー」という”エッセイの語源”と言われている作品を著していますが、ずっと混同して覚えていた経緯があります。

自分の考えたことや思ったことを、誰かに読んでもらう前提で書く。

日記と違うのは、自分が読み返したり、誰かに読んでもらう前提で書く、というのがエッセイなのだろうと思っています。ということもあって、noteで毎日更新を始めた時に、注意していたのは敬体・常体がある“文体”でした。当初は、柔らかい印象で読んでもらいたくて、ですます調で書くことを決めていました。

これがエッセイ、と意識し高校生くらいの時から読んでいたのは”さくらももこ”の作品群で、日常から旅先、創作のあれこれなど、楽しく読みました。こんなことを考えながら暮らしているんだ、と同時に、なんでこんなに面白いことばかり起きているんだ、と思ったものです。

読み手を意識して、面白く、楽しく、明るく書く。

スポーツ選手や芸能人、歌手などのエッセイも読むことがありました。才能がある人は、文章もうまいな、などと思っては、自分の才能って何?とか芸能人の日常も、一般人と変わらないのかも、なんて思うこともありました。

どのエッセイを読んでも、共通しているのは、過去のことを書いている点でした。その多くで、書き手の過去のことを今に結びつけて書いているのです。そう思っていたけれどこうだった、あの時のことは今ではこう思える、のような変化や成長、あるいは変化しないということも。それは、読み手を励ますものでした。

書き手の、過去と今を繋いでいる。

文章は話すことと違って同時性よりも保存性があると思っていて、書いた瞬間に読まれるものではなく、少し時間が経って、あるいは距離的に離れた場所で、その言葉に触れられるのが魅力です。

ときにエッセイも、いまこの日のことを書くよりも、あの日のことを書いて内省することで、過去の自分を見つめることになり、さらにその文章の読み手は今の自分に投影することができるのかもしれないと思うのです。


半年ほど前に、家族についてのエッセイを書いていたのですが、とある事情から下書きのまま眠っている記事があります。その作品は、ふだんはやったことがない「事前に読んでもらってアドバイスをもらう」ことを実践し、僕らしい文章と、研ぎ澄ませた内容を両立するような挑戦をした、まさに”作品”でした。

勢いに任せて書き終えて、モヤモヤと気にかかったのは、エッセイが人を傷つけてしまう可能性でした。事実と真実が違うように、書き手の気持ちが込められたエッセイは、書き手の視点で書き手の価値観が投影されています。

それが読み手の心境や価値観に寄り添えるものであればいいのですが、果たして読み手がいつ読むのかも、どんな状況で読み始めるのかも分からないものです。そして、最も大事な”誰が”読むのかもわかりません。

投稿をめぐって、家族がどう感じるのか、という点は、もっと大事にしなくてはいけないと痛感しました。書き手の今が、家族の今であることも多いわけで、”将来的に「書いて良かった」となったらいい”という思いは、やはり将来にならないと分からないものです。

誰かを傷つけてしまうかもしれない。

先に登場した、さくらももこの作品も、基本的には面白く読んでいたのですが、ふとした瞬間に「羨ましいな」「それ変だよ」と思うこともありました。ただ、そういう反応を避けるために書かれた文章は、読んでもあまり面白くないのかもしれません。

同じような境遇の読み手が励まされるとか、あるいは反感を覚えるとか、それは書き方ひとつで変わるものかもしれない、とも思います。

ただ僕は、読み手の受け止め方は意識してもいいけれど、読み手を変えようと思うのは烏滸がましいことなのではないかと思っています。

秋谷さんの投稿では、編集者の方が「エッセイは、読み物として成立する」と仰っていましたが、その部分を重視するならば、エッセイを書く時に気をつけるのは、分かりやすさと身近さと、面白さなのだろうと思います。

いくつかの特徴をまとめると、エッセイとは、自分の目の前で起きたことや、体験したこと、その何を面白いと感じたのか、それを説明するための文章、なのではないかとぼんやり思うのでした。

視点や言葉選び、構成や盛り付けは、書き手の技量というかセンスであり、それこそがエッセイのうまさではないかとも思います。

結局のところ、やっぱり難しいなぁと思いながら、筆を置きます。









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