こんなんでも生きていける #書もつ
大学生の頃、大学らしい科目を履修したいと思いついて、初めて聞いた学問に魅力を感じていた事がある。結局は、講義を聞いて、本を読んで、レポートを出して、みたいな展開でいわゆる大学的な勉強のルートに乗るのだけれど…。
中でも「文化人類学」はそれまでの歴史や地理の知識を掘り起こすような、深掘りする学問なのだと感激したことがあった。教員は教授のような肩書きはない比較的若い方で、とあるテレビ番組でラーメン王(準優勝だったかも)になられたという方だった。(この投稿のために調べてみたら、現在は別の大学で教授になっていた)
文化人類学を履修したことのある者なら「森に入る」のような表現には、グッとくる事があるだろう。何かを”比較”し”構造化”された社会を見出すような「ここではないどこか」が、目の前に現れるのではないか、という期待感をもつ。
人類学者と言語学者が森に入って考えたこと
奥野克巳・伊藤雄馬
たまたま、棚で見つけただけの本だった。ぐずる子を抱っこ紐で抱えながら、散歩がてらに立ち寄った図書館で、まだぐずり続けている子の声に緊張しながら、目に付いた作品を借りただけだった。
時間を見つけて開いてみると、そこには文化人類学の講義の時に見られたような、比較とかパースペクティヴ(視点)のような言葉が並び、あぁこの感じは…と嬉しくなったのだった。
異文化との関わりの中で、それを理解しようとするならば、言葉について見つめていくことが近道であるように思える。それは言葉そのものが文化の象徴であり、そう信じられているからだ。
タイトルの「こんなんでも」は”困難”ではなく、”こんなものでも”という意味だ。つまり、何の苦労もせずに生きていける社会があったんだ!と驚く部外者たちの感嘆の言葉である。その発見は、読み手を多いに励ましてくれる。
確かに、全く異なる文化で地域で人類なのだが、そういう社会もあると知ることは、パラレルワールド的というか、自分とは違う世界で”死んでいない人”がいることの神秘を感じる。ちょっと何を言っているのか分からない。
作品ではとある民族について語られているが、そこに現代の日本の有り様としての人物(プロ奢ラレヤー)が対照的に描かれることで、資本主義を飛び越えた「贈与論」の話になっていく。この鮮やかさが人類学なのだと再認識する。読めば読むほど単純な生き方をしてるからか、資本主義にがんじがらめになっている僕たちからしたら、新しささえ感じてしまう社会があるのだ。
所有ではなく共有、死んだ者の名前は言わない、挨拶がない、将来のことが概念として存在しない、など同じ人間であるはずなのに、一体いつの時代を生きているのかと驚かされる。
研究対象と自己との”あわい”を感じながらも、その社会に身を置くことによって生じる心の変化が、とても魅力的だった。単に影響されるだけでなく、自らがその社会の一員として生きる姿に、羨ましさすら感じてしまう。