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掌編というより小片と言いたい

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#超短編小説

愛した姿はそこになく

愛した姿はそこになく

 この部屋が昔、音楽室として使われていたことは、ほんのつい最近知った。よくよく見れば、錆かけの本棚の中に、薄汚れた楽譜が何冊か、積み重なっている。まあ、そんな物を見つけていたところで、きっと私は全部先輩の持ち物だと、勝手に勘違いしていただろう。片足の無い机の上に置かれた電気ケトルも、棚の中に置かれたオルゴールも、なんだかよくわからない分厚い本も、全て先輩の物なのだから。
「祖父の教え子がね、この学

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ハル、ノ、アワユキ

ハル、ノ、アワユキ

 雪は冬の、なんていうけれど、実際のところ一番雪が降るのは冬と春の境目だと思う。急に寒くなった室温に体を震わせ、真冬に比べて少し心許ない掛け布団に身を包んでカーテンを開けた。

 ああ、やっぱり。雪が降っている。

 着替えるのも億劫だったので、ずるずると布団を引きずったまま、ヤカンに水を入れ、コンロにかけた。そのまま、お湯が沸くまでぼんやりと、窓の外を眺めていた。

 平たくて大粒の雪は、風に吹

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この世界に杭を

この世界に杭を

 この世界は言葉であふれている。
 人を認める言葉、人を否定する言葉、人を救う言葉、人を傷つける言葉、力強い言葉。
 感情、空気。そういった言葉で柔らかくされているけれど、結局のところ、強者が弱者を縛り付けるものでしかない。

「あ、また飲み込んだ」
 アイスコーヒーをストローでかき混ぜながら、篤史が言った。
「飲み込むって?」
 先ほど食べたサンドイッチのことだろうか。そんなに、食べるのが早かっ

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名付けることもないほどの些事

名付けることもないほどの些事

 この関係に、言葉なんていらなかった。

 夏休みの終わり、8月の第3日曜日。住宅街の大通りを塞き止めて、車の代わりに人を流す。歩道には似たような屋台が並び、小中学生が我が物顔で溢れ返る。所謂地域の、ありきたりな夏祭り。

 小さい頃は、それこそ道のあちこちに宝箱が並んでいる気分だった。例えばシロップかけ放題のかき氷。或いはじゃんけんに勝つと二つもらえる、つやつやのフルーツ飴。当たりはないと噂のく

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意味のないモノローグ

「松葉」

茜の呼び声に応じるようにして、顔を起こす。短いキスと、肌の温もり。一瞬だけ触れて、彼女は再び自分の世界に戻った。

この行為に意味はない。

茜にとって、"キスをすること"は本当に些細なことなのだ。例えば、辞書を引いて言葉を調べるように。絵描きが、デッサンをするように。小説家や漫画家が取材旅行と言って海に行くように。恋とか、愛とかは関係ない。気になったから、するのだ。そのために、定期的

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骨時計の約束

 旧校舎の二階。扉を開けると水を吸った木の匂いと、たまったほこりの匂いが鼻腔を擽る。開かずの棚の道の奥。二つ並べた古びた机の寝台。そこがあいつの特等席。
「寝てんのか」
 窓から差し込む、午後の日差しを浴びながら、あいつはゆっくりと顔をこちらに向けた。
「起きているよ。お前の足音は騒がしい」
「じゃあそれらしくしろよ」
 ん、と小さく返事をして、友瀬は体を起こした。足の高さが不ぞろいな机が、ガタガ

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このまま消えて、無くなるように。

このまま消えて、無くなるように。

 その日は一人になった瞬間、涙が溢れて止まらなかった。

 誰もいない、携帯もない、バスルームの中。シャワーの中に嗚咽を隠して、ぼろぼろと泣いた。脳裏に浮かんだのは、上司の顔、先輩の顔、友人の顔、さっきテレビで見た芸能人の顔、歌番組のC Mで歌っていたアイドルの顔、最近会えていない好きな俳優の顔。規則性もなく、次々と浮かんでは消えてゆく顔。誰のものともわからない、老婆の顔。

 きっと一過性のもの

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