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【小説】左手【ショートストーリー】
父は私の顔を見ると、左手の人差し指と中指を口にあて、煙草を催促する。
煙草は月に一度と約束し、それを楽しみにしている。
父が寝たきりになって10年になる。
脳卒中を二回、右半身が動かなくなってしまった。幸い、左利きなので食事は自分で摂れる。
脳卒中後、10年の間に様々な病気で入退院を繰り返し、父の体には3つの通り道ができた。
1つ目の通り道は大腸。
土砂を流す約1.5メートルほどの道が崩れ、流れを塞き止められてしまった。
土砂を外へ流す新しい道を作った。
父の左側のお腹には、土砂を受けとめる袋がついた。
2つ目の通り道は膀胱。
ダムに貯まった余分な水を流す、約20センチの道が狭くなり、水が流れにくくなってしまった。
何度かパイプを通し排水をしていた。狭くなった道に無理にパイプを通していたので損傷し、道は完全に閉じてしまった。
新しい道を作らなければならなくなり、外へと続く新たな道を作った。
父のお腹の下の辺りから細く長いパイプが出ており、その先には排水した水を貯める袋がベッドの右側にぶら下がっている。
3つ目の通り道は胃。
他の2つの通り道は、出す事を目的として作られたが、この道は入る事を目的として作られた。
飲み込んだ食べた物や分泌液が道を誤り、本来の道を通らず留まってはいけない所に入ってしまう。
それを何度も繰り返すので、本来の道を使わずに栄養を体に入れる為の通り道を、パイプを使って新たに作った。
父の上の方のお腹には、そのパイプがとぐろを巻いている。
何度目かの入院をしたある日。
私は父の見舞いに来ていた。酸素マスクをした父は、苦しそうに呼吸をしていた。
先に来ていた母が担当医から聞いた父の状態を私に説明する。
父は苦しい為か、ほとんどしゃべれなかった。
しばらく病室にいたが、子供が学校から帰る時間が近づいた為、帰る支度をした。
それに気がついた父が、ところどころ内出血がある痩せ細った左手を上げ、私を見送る。
父の中の細胞が少しずつ朽ちていく中、私に向けられたその左手はまだ、腐食は進んでいなかった。
その姿を見て、もうこれが最後なんだと感じた。
父も何かを感じていたのかもしれない。
私が病室を出るまで、その左手をおろす事はなかった。
翌日、朝早く母から電話が来た。病院からすぐに来るようにと母に連絡があった。
支度をし、病院へ向かう。
病室のドアの前で一度深呼吸をし、ドアを開けた。
父のベッドを囲み、母と兄弟たちがうなだれていた。
鞄に忍ばせた煙草を握りしめ、白く冷たいベッドの上にいる父に近づいた。
煙草を催促するのではないかと少し期待したが、左手は動かなかった。