『逃げ上手の若君』賊侍たちが花を咲かせた舞台
前回のエントリーで取り上げた瘴奸(しょうかん)はとても魅力的なキャラだったが、どうしようもない悪党でもあった。今回は「悪党」と呼ばれる存在と、この時代の道徳観について取り上げ、物語の主人公・北条時行を待ち受ける過酷な運命についても少しだけ触れたい。
「歴史にネタバレなし」だが、気にする人は慎重にどうぞ。
この時代の「悪党」とは
『逃げ上手の若君』の第9話では、
と感傷的なナレーションが挿入されていた。「賊侍(ぞくざむらい)」は原作者の造語だろうか? 歴史用語として私には心当たりがないが、要するに彼らは「悪党」なのだ。
悪党は現在でも使用する広義の意味と共に、狭義にはこの時代の「他人の荘園を侵犯し、略奪行為を行う者」を指す。鎌倉時代の後期、多くの御家人が生活に困窮し、領地を売ったり質入れしたりで失っていった。それを手に入れたのが「凡下」と呼ばれる一般庶民で、何らかの方法(おそらく当時興隆しつつあった商業関係)で財産を蓄えた者たちだった。
彼らは手に入れた土地の地主となり武力を蓄えて武士となっていく。単独では力が弱いため、類似する者たちが相互に連携することで次第に強い力を持つようになった。そして、こうした者共がいわゆる「悪党行為」を働くようになったのだ。
有名な楠木正成が祖父もしくは父の代まで悪党だったという説があり、正成自身も悪党だった言われることもあるが、私の見聞の範囲では正成が悪党行為を行った史実は確認されてないそうだ。
道徳不在の時代
鎌倉幕府滅亡から南北朝争乱の時代は道徳観念が徹底的に腐敗し、道徳心も美意識もなく、ただ利害関係のみで人々が行動する時代だったと言われる。悪党はその典型だ。
得だ!と思えばある人に味方し、損だ!と思えば裏切って別の人に付く。そんな節操のない無法者ばかりの嫌な時代だ。
例えば、鎌倉幕府を滅ぼした足利尊氏、直義の兄弟も、
ということだ。新たに武士の棟梁となった足利兄弟がこれなのだから、いかに道徳観・倫理観に欠けていた時代だったかうかがい知れる。
そんな時代背景のせいだろうか、大きな権力争いに敗れた側が壮絶な死に方をしているケースが目につく。代表例は幕府滅亡時の北条氏で、足利尊氏に落とされた六波羅では北条仲時以下432名が自刃し、また新田義貞に落とされた鎌倉では北条高時ら一族郎党800余名が自害したという。
これはもちろん一族郎党の結びつきが強固で、武士の潔さが発露したための結果とみることはできるし、実際に後世の江戸時代ではそうした評価でこのときの北条氏の行動が絶賛されている。
しかし、一方では上述の通り、利害関係だけで簡単に人が離反する世にあって、敗者が頼れるのは一族郎党のみで他にはいない。死ぬまで戦うしか残された道がなかったのかもしれない。
そして、こうした行く末は『逃げ上手の若君』の物語で主人公・北条時行を待ち受けている運命でもある。私は原作未読だが、原作ではその過酷な末路が描かれたと伝え聞く。しかし、アニメではまだまだ先の展開になるので、ここでの詳述は控えておこう。
楠木正成の特異性
こんな混沌腐敗した時代にあって奇異な例外と言える存在が楠木正成だ。彼は商業階級の出身とする説が有力で、正成の時代、畿内・河内周辺にかなりの勢力を有していたとされる。
後醍醐帝の霊夢で楠木正成が世に出て以降の主な出来事を列挙すると、
1331年 赤坂城の戦い
1332年 千早城の戦い
1333年 鎌倉幕府滅亡
(アニメで描かれているのはこの期間)
1335年 北条時行挙兵
1336年 湊川の戦い
となり、楠木正成が歴史の表舞台に立っていた期間はごく短い。
ちなみに、『逃げ上手の若君』の瘴奸は楠木正成と一緒に戦ったことがあるような描写があったが、それは赤坂城か千早城の戦いのどちらかだ。
アニメで瘴奸は「負け戦で名を上げることができなかった」と言っていたが、楠木正成は千早城の戦いで寡兵をもって幕府の大軍と対峙し、幕軍を散々に苦しめ、長期に戦い抜くことで大いに名声を上げた。正成のこの戦いの間、反幕府の軍が日本各地で決起し、ついには鎌倉幕府滅亡につながっていく。
そう考えると瘴奸が楠木正成と一緒に戦ったのは赤坂城の戦いなのだろう。もし、千早城の戦いでも行動を共にしていたら、瘴奸には別の人生があったかもしれない。
その楠木正成は後醍醐帝の命に応じて立ち上がって以降、一貫して勤王を貫いている。湊川の戦いまでの概略を列記すると、
「建武の新政」と呼ばれる後醍醐帝の政治は全くの悪政で、多くの武士は失望
代わりに武士たちの輿望は足利尊氏に移っていく
尊氏は独自に幕府を開く意思を示して、後醍醐帝から離反
両者の対立が激化し、尊氏は京の戦いでいったん敗れるが九州で勢力を回復し、大軍となって京を目指す
新田義貞、楠木正成が足利軍を迎え撃つべく出陣。これが湊川の戦いにつながっていく
となる。
武士の支持を得られない新政は失敗であり、楠木正成は後醍醐帝に足利尊氏との和睦を進言するが受け入れられない。正成も新政には失望していたと想像されるし、勢いに乗った足利の大軍に太刀打ち困難なことは認識していただろう。だからこそ、有名な「桜井の別れ」に進むのだ。
負けるとわかった戦いに挑むのは当時の武士の一般的な価値観ではない。正成は目先の損得だけでなく、後世の人々が自分の行動をどう評価するかを意識していたとする解釈がある。彼がそのような発想に至るのは、学問による精神的な陶冶の結果であり、その学問は宋学(=儒学の中の朱子学)だったはずだとする説には説得力がある。
そして、楠木正成は後世、「忠臣の中の大忠臣」として多くの人々に影響を与える存在となった。正成の本懐ここになれり、ということだろう。
参考文献:
海音寺潮五郎『武将列伝』収録の「足利尊氏」(文春文庫)
海音寺潮五郎『武将列伝』収録の「楠木正成」(文春文庫)
海音寺潮五郎『悪人列伝』収録の「北条高時」(文春文庫)
海音寺潮五郎『蒙古の襲来』(河出文庫)
司馬遼太郎『日本史探訪(8)』収録の「楠木正成」(角川文庫)