今さらすぎるが『姑獲鳥の夏』を読んだ話
友達に勧められて『姑獲鳥の夏』を読んだ。
「サブカル陰キャなのに京極堂読んでなかったの?」
恥ずかしながらその通りだ。
正直に言うと、チャレンジは何度もしたが、読めなかったのだ。
京極堂を勧めてくれた友達は、事あるごとに私の相談にのってくれた。
友達のSちゃんと私は、さしずめSちゃん堂とふわ氏、といった感じで、LINEで対話し続けていた。
そのやり取りがあったから、すんなり読めるようになったのだ。
(加えて、今連載している『ワタシが発達でヤンデレなのは、やっぱりアナタのせいに違いない』 #わたあなせい を書き出すきっかけになったのも、この友人とのLINEのやりとりである)
読み始めて60ページ目で、そこまで京極堂と関口氏の会話しかないことに驚いた。
あまりに驚いたのでSちゃんに
「会話しか出てこない!」
とLINEしている。
また、147ページの、失踪したのか死んでいるのかわからない久遠寺牧朗のくだりで
「シュレーディンガーの藤牧」
という言葉が降りてきてしまい、しばらく笑って先に進めなかった。
まさかと思うが、京極先生がそこまで意識して書いていたのだとしたら、やはり妖怪だ。
読後感想、
「わからないということがわかる」
「見えるものだけが実在するとは限らない」
あまりにざっくりしているが、このふたつに
「それでいいのだ!」
と太鼓判を捺してくれた、もうそれだけで読んだ以上の価値があったと思う。
私が、夢で見る「ショッピングモール」というのがある。
稲城市にあることになっているのだが、その中は伊勢丹や高島屋よりも広く、豪華で、高級ブランドからサンリオグッズまで何でも売られている。
このショッピングモールは「ある」のだ。
夢にしてはいやにはっきりと、しかも毎回中身が変わることもなく同じように堂々と現れるので、多少不思議だったのだが、「ある」のだったら何の不思議もない。
私にとっては、稲城市には、伊勢丹や高島屋もかくやという高級ショッピングモールが存在するのだ。
それを京極堂は教えてくれた。
今までの私の記事にもあるが、私はメンヘラでヤンデレだ。
関口氏の行動や話すことひとつひとつに
「ぐわぁぁぁぁ!」
と打ちのめされていた。
関口氏は私だった。
そして「きょうこ」と「りょうこ」も、私だった。
呪われたおんなのこ。
発達障害というのも遺伝性が強い。
私の一族もそれなりに呪われている。
呪いを背負わされた、狂った娘。
「きょうこ」と「りょうこ」は、救われたのだろうか。
そうだと信じたい。
そして、読後何より心にぐっさりきたのは
「我々が毎日毎晩Twitterで喧しくしたり、ソシャゲにがっしゃがっしゃ課金したりするのは、無為…」
という感情だった。
いや、京極堂なら
「Twitterもソシャゲも仮想現実だから、あなたがそこにあると思えばあるのだ。
だから毎日ツイ廃しようが課金しようが自由だ」
と言ってくれるかも知れない。
が、私は『姑獲鳥の夏』で京極堂と関口氏の間で交わされるような対話こそがコミュニケーションの本質である、と強く思ったのだ。
Twitterも仮想現実だが、所詮はカストリ雑誌のようなものだし、さらに言うなら久遠寺醫院に投げ込まれた石礫のようなものだ。
ソシャゲも仮想現実だが、そこには対話がない。
向こうから与えられる情報も投げっぱなし、こちらから与えられるのはそれこそ課金のような物理的アタックのようなことだけである。
この年齢で京極堂は遅すぎたかも知れないが、今までの私の経験がなければ、そもそも読み通すことさえできなかった。
そして今回の読書は、明らかに私にとって「京極前」と「京極後」という人生のターニングポイントになった。
読書は、時に実際の経験よりインパクトを与えることがある。今回がまさにそうだ。
それも含めて「事実」なのだろう。