道をゆく人 TEAM JUNYA 恋川純弥の舞台をみて
選ばれし者は居る。
その存在は場の空気と皆の気持ちを掌る。
その空気に触れた人は皆、アタマじゃなく身体で感じる、気を。
なぜそうなれる。なれない。わからない。
なぜその人は選ばれ、なぜその人じゃない人は選ばれない。わからない。
嫉妬ややっかみというマイナスの感情ではなく、
もし仮にそのような感情を持ったとしても「うん」と思う納得する。
そんな者は確実に存在をする。
旅芝居・大衆演劇における恋川純弥という役者は「その」最たる人だと思う。
わたしはこのひとのことを「オタク」だとずっと思っている。
オタク。マニア。
この言葉、なんだか俗っぽい?
求道。求道者。
しっくり来る? 格好いい?
でもなんか大層で使いたくない。
オタク、これがしっくり来る、勿論、褒め言葉。
ただ、ひたすらに、オタク。
一心に、「それ」をつきつめる。
求道というと「ひとつの道をまっすぐまっしぐらに信心レベルに」みたいなイメージ?
でも、ひとつじゃない。いい意味で、ひとつじゃない。
芝居。舞台。三味線。ダーツ。そして殺陣。全部「プロ」。
プロというのはホントの意味だ。ホントに「プロ」。
いい意味で「オタク」。「プロ」。
先日ひさしぶりに観たときも感じた。
他劇団からゲスト座長が2人来ていた日。
でも口上挨拶で当月のチームの相方のような座長にずっと芝居の話をしていた。
先程上演した芝居について「本当はこうで」「こんなやり方があって」「この芝居の原本を知ってる人と出会った。連絡を交換した。今度聞かせてもらう」
芝居、芝居、芝居の話。三味線の話も。ゲストについての話とかでは、なく。
いや、ゲストが来たから「この人たちだからこの芝居を選んだ」「この役は」の話はとてもした。
わたしは、こういうひとが、好きだ。
旅役者たちは皆、芝居が好きだ。
皆、皆、芝居が好きだ。好きだし、仕事だ。それぞれのやり方(仕口)でやっている。
皆それぞれにプライドもある。こだわりもある。
わたしは、それが好きだ。時に、好みではないやり方やこだわりだったとしても。
嫌いなことの方が少なくないかもしれないけれど。でも、その気持ちが、好きだ。
とはいえ、日々毎日が舞台ということは生活と地続きである。
食べていくこと食べさせてゆくこと生きていくことそのもの。
生活と芸、こだわりたいことと、求められるもの、
ふたつの間で、揺れたり、譲ったり、負けたり、でも譲らなかったり。
日々まいにちまいにち芝居を舞台をしていくことはすごいことだ。
日々を年月を年齢を人生を舞台をして重ねてゆくというのはほんとうにすごいことだ。
そのような中で、なぜそうなれるのか。なれないのか。
違う。「続け」られるのか。生活や現実をやりながら。
皆、すごい。皆、いい。だからそれぞれにファンや応援が居る。
旅芝居の懐広い、いい、いいところだ。
好きだ、と思える人の方が少ないどころかほとんどない(?)わたしではある。
でもそれは、旅芝居の、ほんとうに、いいところだ、と、ほんとうに、思っている。
そんな中で、なぜ。オタクだらけの中。中で。
気持ちか。技術か。両方か。バランスか。胆力か。
きっと、ぜんぶだ。その、ぜんぶに加えて、加えて……。
『貝殻節』に息を呑んだ。
集中力だなんてチープな言葉は使いたくない。
気に、客席が呑まれ、しんっ、となり、ぎゅっとなるのを全身で感じた。
好きだの嫌いだのといった主観なんてちいさいそのちいささを呑み込む華。
わたしはそこに、その光と影に、「そうありたかった人」や「そうあり続けたかった人」「あれないまま続けている人」「あれなかった、あれない人」やその気持ちたちをもみたりもして。しんっ、と、ぎゅっと。じっと観た。
そこに居ること。居続けること。
立っていること。立ち続けるということ。
『貝殻節』は、労働歌。
皆、ゆく。それぞれの道をゆく。
重ねていってる。重ねてく。
(TEAM JUNYA 座長 恋川純弥 9月 篠原演芸場)
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構成作家/ライター/エッセイスト、
momoこと中村桃子(桃花舞台)と申します。
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