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【園芸】金生樹譜別録 巻二

 出典:国立国会図書館デジタルコレクション『金生樹譜別録3巻[2]

長生舎主人編

まつ

まつは、庭樹にはき太夫たいふしよく。いかなる 名園めいてん 勝庭しやうてい たりとも、この 一木ひときなくてはことたらぬこゝちこぞせらるれ。しかるを、五葉ごえうでなくてはと、ふでにまかせし 妄誕ではうだい ともなし、さる徒然草つれ/\ぐさ なるべし。また近比ちかごろまつつくりと名乗なの老翁をやぢ あり。えだ十字じうじきらひ、みき九字くじをさくるとかや。

そも/\はへときは、かみ雙枝さうししやうずれば、しも両根りやうこんしやうず。双枝さうし 両根りやうこん 十字じうじ にあらずや。さて又、かぜ吹廻ふきまはし、日影ひかげ陰陽いんやうにより、霜雪しもゆきやしなひかた 軽重けいぢうあれば、えだぶり、樹様きぶり自然おのづから長蛇てうじやいきほい をなし、遊龍ゆうりやう姿すがたあらはす。

※ 「五葉ごえう」は、五葉ごようまつのこと。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『金生樹譜別録3巻[2]

この ことはり をすこしでも知ならば、何流なにりう かの 活華いけばな るやうに、うまれでもない えだかゞめ、生酔なまよいの三番みるやうな、樹ぶりいさりとは無粋ぶすい/\。それを うたが ひたまふなら、よそにその高砂たかさご やむかしの まつえだぶりと、わが 日本ひのもと一松ひとまつ唐崎からさきかけしぶりより、をよそ 世間せけん名木めいぼくをゝかた こゝによせたれば、わがいふことの いつはり ならぬを、かのそと 不見みず若様わかさまかたよくきゝおぼたまひて、めつたにえだきることなかれ。

播州ばんしう 高砂古松たかさごのまつ
相生あいをひの松ともいふ
雌松めまつ 雄松をまつ 二木なり

※ 「生酔なまよい」は、ぐでんぐでんに酔っぱらっていること。
※ 「播州ばんしう」は、播磨国はりまのくに

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『金生樹譜別録3巻[2]

江州ごうしう 唐崎からさき 孤松ひとりまつ

われみても むかしはとをくなりにけり
 ともに老木をいきの 唐さきの松

とよみし松は、大風にたふれて、今の松は、天正十九年、新庄氏 松菴雑齋の兄弟二人して、うつし植し処也。

からさきの 松は鼻より おぼろにて 芭蕉

※ 「江州ごうしう」は、近江国おうみのくに
※ 「新庄氏 松菴雑齋の兄弟二人」は、新庄しんじょう直昌なおまさの次男・新庄直忠なおただと三男・ 一松ひとまつ雑斎ざっさい のことと思われます。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『金生樹譜別録3巻[2]

高野山かうやさん 三鈷さんこの松
二本榎、高野寺の三鈷の松も全くこのかたち也。

紀州きしう 藤白松ふじしろのまつ
高さ七丈にあまれりとかや。藤花ふぢのはなは三十三年に一度さくなり。

※ 「紀州きしう」は、紀伊国きいのくに

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『金生樹譜別録3巻[2]

相州さうしう 固瀬かたせ 西行さいぎやう 見返みかへりの松
今のは、若木わかぎなりとぞ。

曽根そねの松

※ 「相州さうしう」は、相模国さがみのくに

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『金生樹譜別録3巻[2]

出羽国 由利ゆり郡山中 神代じんだいまつ
高さ四十ひろありといふ。凡、日本國中の大松といふは、この神代松と武蔵國ちゝぶ山中のかねのて松、上野國をぜ山中の子貫松なりと云り。

※ 「武蔵國ちゝぶ」は、武蔵国むさしのくに 秩父ちちぶ
※ 「上野國をぜ」は、上野国こうずけのくに 尾瀬おぜ

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『金生樹譜別録3巻[2]

ちゝぶ山中 かねのて松
享保年中、杣を中の枝まで あげられし処、それより上へは のぼりがたしとて、下りし ● 中の枝より下、三十七尋ありとかや。

上野國利根郡 をぜ山中 子貫松

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『金生樹譜別録3巻[2]

連理れんりまつ
信州木曽きその山中に 大樹たいぼくあり。又、肥後國にもあり。たゞし、是は小木なり。

飛州 乗鞍のりくらたけ の 連理松は、鷹さ十四尋ありときけり。

※ 「信州」は、信濃国しなののくに
※ 「飛州」は、飛騨国ひだのくに

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『金生樹譜別録3巻[2]

太田道灌どうくわんさい 舩繋松ふなつなぎまつ
千駄木せんだぎ 團子だんご坂 六三郎庭にあり。

舩つなぎ松といふは、沖にて目当とする故なり。この松に舟をつなぎたるといふわけにはあらず。

此外にも、日暮里、小石川等に、舩つなぎ松あり。みな海上よりめあてにしたる松なりといふと也。此邊を海なりといふことにはあらず。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『金生樹譜別録3巻[2]

柳島やなぎしま 妙見めうけん 影向えうごうまつ
東都えど十八松 と しやうせし、松のなかにて いま現存げんぞんするは、このまつとたれも をつくる也。その外のは、大かた 植継うゑつぎ のわか木なり。

つたへきく この 柳島やなぎしま は、むかし 頼朝よりとも きやう 御陣ごぢん をめされし ところにて、その 御陣ごぢんあとのしるしに、千葉ちば常胤つねたねうゑし松にて、頼朝よりともけう 御旗みはた立松と となへしと、中頃なかごろより 千葉ちばの松とよびけり。そののち真間まゝ座主ざす上人 弟子でし 法性房日せん、千葉實胤さねたねはだまもりに入たりし。妙見尊を 此松の下にて 感得かんとくして、實胤が 追福ついふくのために 法性寺を建立せしとも云。

一説には、千葉実胤こゝにて討死したりしを、日遄といふものこゝに葬り、しるしに松を植たるなりとも。

※ 「中頃なかごろ」は、歴史上のあまり遠くない昔のこと。中ほどの時代。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『金生樹譜別録3巻[2]

肥前國ひぜんのくに 名護屋なごや しるしの松
朝鮮てうせん 渡海とかい軍勢ぐんぜい 目印めじるし のために さだめられし松なり。

筑前ちくぜん國 はこ崎 舞子松まいこのまつ

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『金生樹譜別録3巻[2]

岩根いはね
たが世にか たねはまきしと 人とはゞ
いはねの松よ いかゞこたへん

岩根松いはねまつは、京都けうとにて 長壽てうじゆ仙人せんにん洞中どうちうにありときけり。元来ぐわんらい石川いしかは丈山じやうさんこのみし松なりといへり。今、江戸にて 石付の松といふものゝ元祖なるべし。

此松 みきの長さ 九間四尺
枝の長さ 四間壱尺 壱の枝
同    三間弐尺 弐の枝
同    三間   三の枝

※ 「石川いしかは丈山じやうさん」は、江戸初期の漢詩人、書家。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『金生樹譜別録3巻[2]

越前國 金が崎 たこ松
海上へ十七八間、横にさしたる枝ぶり、実に奇絶なりときく。

陸奥國 伊達だてこほり よしつねあしかけ松
義経 奥州下向は、承安、文治と両度なり。実に、その時よりありし松ならんには、既に 六百六十年に及べり。ためしまれなる名木といふべし。

※ 「奇絶」は、すぐれてめずらしいこと。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『金生樹譜別録3巻[2]

紀伊國きいのくに 和歌浦わかのうら 根上ねあがまつ
此処の松のなることは、すで紀伊國きいのくに 名所めいしよ 圖會づゑに くはしくいでたれば、今これを略す。

つるの松

豊後國ぶんごのくに 国崎くにさきこほり にも、根上り松あり。すべて此 和歌浦の松と同じければ、別に國を出さず。

相引の松

住吉浦の根上り松は、古く歌にもよめども、今はきしとおくなりて、さる松も見ずとかや。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『金生樹譜別録3巻[2]

相州 三浦郡 浦の郷 坂中さかなか村 観音こしかけ松
高廿ひろほど有。上のうろに白蛇すむ。

金沢 瀬戸せとはし てるて松
昔よりの松は、いつしか風に打て、今のは中ころ植たりし樹なり。

※ 「相州」は、相模国さがみのくに

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『金生樹譜別録3巻[2]

鎌倉 五大堂 めじるしの松
五大堂 明王院 門前にあり。相傳ふ、兼五郎 影政めじるしのために植し品といへり。

又、あるひは、これを 五大堂の かすみ の松ともいふ。この頃、大人にたづねしに、龍燈の松と申とこたへき。

※ 「兼五郎 影政」は、相模国鎌倉郷を本拠とした平安末期の武士、鎌倉かまくら景政かげまさのこと。通称、権五郎。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『金生樹譜別録3巻[2]

泉州せんしう 堺 安立町 なにはやの松
たかさ 七尺
東西 十五間
南北 十三間
めぐり 五十間

※ 「泉州せんしう」は、和泉国いずみのくに

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『金生樹譜別録3巻[2]

およそまつぶりを うつして、秘蔵ひぞうせしこと すでに 二十年にあまり、そのかず 三四百品に及べり。それが中より、わづかにこればかりを 抜書ぬきがきして こゝに出す。又、江戸の近邉に 十八松、三十六松などゝといふ 名木ありて、好人こうじんは みなよくこれを しるといへども、いかにせん、このころ 風に やぶられて、ぶり むかしと同じからぬも多く、あるひは、根から吹打れてことなる 若木わかぎうへて、むかしのまゝの名を なのるもあり。それは、遠国えんごくの 名木とても おなじこと也。ふかくあやしむに及ばず。然れども、今こゝに出す所は、大かた 古木こぼくの 圖を求めたれば、現在まのあたり のすがたと ことなるをいふかることなかれ。

やなぎは、さのみ たかも多からず。鎌倉鶴岡の柳は、北条武蔵守泰時の歌に、年へたると えいじたれば、なを それよりまへなるべければ、今のいたる まで 六百年に あまれる やなぎ 也。

余、ちかごろ 夢中にしば/\鎌倉に遊び、この柳を打きたりて、庭にさしたるが、よくふきて、づきたり。かつ、こゝに出しく柳の圖も 寫真にして 画狂ゑそらごと に非ず。

これにつゞきては、那須なす西行さいぎやう やなぎ
處ゝにありて、いづれが真の西行か。清水ながるゝ柳かけと詠じ揃にてあらんか。今、考がたし。見る人よく思はかれ。

京都 柳の井の柳
今のは若木也。

六角堂の柳
これは蜀の種也と。

などを始として、島原や吉原の出口の柳、又は、見かへり柳、或は、世柳。それから末には どての柳までも。

※ 「さのみ」は、のみ。それほど、さほど。
※ 「清水ながるゝ柳かけ」は、西行の「道の辺に清水流るる柳陰 しばしとてこそ立ちどまりつれ」という歌のこと。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『金生樹譜別録3巻[2]

鎌倉 鶴ケ岡 柳原の柳
としへたる つるが岡への やなぎはら
青みにけりな はるのしるしに
   武蔵守 泰時朝臣

※ 「としへたるつるが岡へのやなぎはら」は、三代執権北条泰時が詠んだとされる「年経たる鶴ヶ岡辺の柳原青みにけりな春のしるしに」の歌。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『金生樹譜別録3巻[2]

那須 西行柳
根の太さ 十弐じうにひろあり いふ

同 古道といふ所にあり。
これをも西行柳といふ。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『金生樹譜別録3巻[2]

同 芦野あしの 西行柳
また、遊行柳ともいふ

三株さんぼん、いづれも真の西行柳なるべき。

六角堂の柳は、かきそとみどばた までたれしといひ傳ふ。

この やなぎは、蜀國しよくこくたねなるよし、いひ傳えたり。俗に、しだれやなぎといふものゝ中にも、ことに長きものなり。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『金生樹譜別録3巻[2]

うめ。むかし 大宰府だざいふ百木もゝきの梅とて、大伴家持をゝとものやかもちうゑられしが、のちかれうせて、飛ゝとび/\こゝかしこに のこりしにより、大宰府の 飛梅とびうめしやうせしを、。今 一きは ことにせんとて、千里飛梅のせつ をこれりとかや。それは、とまれかくまれ、当世たうせい はやる しの作りの うめにも、ちつと風俗を作らせてみたし。何となれば、はな児字じし蛺蝶けうてう天姿てんししたるからには、何ぞ、みき女字ぢよじをなし、すはへ鉄線てつせんをなさせざるべけんや。

飛梅とびうめ
天平十二年十一月九日 大宰府にて家持卿
 みそのふの もゝきの梅のちるはなの
  あめにとびあがり ゆきとふりけん

此歌に 飛あがりとよまれしより、好事の人、とび梅とよびし也。

※ 「とまれかくまれ」は、いずれにしても、ともかく。
※ 「しの作り」は、しのづくりでしょうか。
※「蛺蝶けうてう」は、ちょうの別名。
※ 「すはへ」は、木の枝や幹からまっすぐに細く長く伸びた若い小枝のこと。すわえ。楚、楉、杪。
※ 「家持卿」は、大伴宿禰家持おほとものすくねやかもち

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『金生樹譜別録3巻[2]

臥竜梅ぐわりうばい
亀井戸のは、たれもしれり。浅草幸龍寺内にも一株あり。婉轉として臥竜の姿、自然に備なり。

照水梅しやうすいばい

水くゞりの梅は、やはり臥竜の種類なるべし。京都仙人洞にありときくものは、一株にして 十八間あるときけり。

※ 「婉轉ゑんてん」は、しなやかに動くこと。

出典:国立国会図書館デジタルコレクション『金生樹譜別録3巻[2]

軒端梅のきばのうめ
和泉式部が家にありし梅なり。軒ちかく植たりしかば、のきばの梅と人もよびならはしく也。今は、京都東福寺に中にあり。

又は、花の辨 はなれてかさなり合 ● 故に、退のきはの梅とよぶともいへり。

西湖せいこうめ
金沢照名寺にあり。むかし、金沢氏のこゝに住せしとき、西湖より種をうつして植たりしとなり。たゞし、今あるは若木にして、むかしのまゝの春にはあらざるべし。



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