"休む" ということ
先月、職場でとてもショッキングな出来事があった。
自分自身では大丈夫と思っていたけれど、記憶がなかったり、夜眠れなくなったり、急に立てなくなったり、フラッシュバックが頻繁に起き、最初の一週間はとても苦しい日々を過ごした。
結局、職場の看護師さんに繋いでもらい「病院に行ってください。」と言われ、私は人生で初めてPTSDと言われたのである。
診断書を手にして呆然とする私に病院の方が「今は、とにかくゆっくり休んで元気になって下さい。」と言った。
職場で一番仲が良い先輩や、いつも気にかけてくださっている方に数名、10月いっぱいはとりあえず休むことになったと事情を話した。
みんな「とにかく今は心と身体を休めてね。」と、温かい言葉をくださった。
昨日 身体が重く、家事もままならず横になっていた。眠るわけでもなく意識を保ったまま、覚えているだけで6時間は畳の上で転がっていた。
ふと思いついたのが、みんなの言う"休む" とはこれなのかと私は検証を始めたのである。
畳の上で転がるのはとても好きで始めは気持ちよかったが、もともと考えることが好きな私が頭を空にできるわけもなかった。
(家事が思うようにできなかった)
(仕事も休んでしまって迷惑をかけた)
(私は何も役に立たない人間だ)
(私が生きる意味って何だろう)
夕方までに思い至ったのは、仕事も家でも役に立たない自分自身が無能だと感じ、身体がますます重たくなったということだった。
私はかなり落ち込んでいたわけだが、落ち込んだときは必ず「私は〜と考えていて、今とても辛い。」と言える人がいる。
そういうと決まって「居るだけで役に立ってるからね。」と返ってくるので、私の心の台風は進路を変え、別の場所で少しずつ消滅していくのであった。
仕事をすることや家事をすることで"目に見えて誰かの役に立つ" ということが心の健康に一役買っているのは間違いない。
"居るだけで役に立ってる" というのは、目に見える役に立つことではないが、存在が既にその人にとって貢献しているということだ。
どちらも自分自身を保つ為には大切なことだと私は以前から考えていた。
そういえば、私が職場でショッキングな出来事にあった日、別件で連絡をとった友だちがいた。
その友だちにその話をしたところ
「身体が鉛みたいになってんのは風呂入って美味しいもん食べて回復して!!
家に帰ったら仕事のことは考えなくてよろしい!!」
と返ってきた。
(友だちもこの記事を読むと思うけれど、特に許可は取っていない。でも大丈夫という自信だけはある。)
"休む" が抽象的でぼんやりとしてきた私にとって、この言葉はとても具体的で分かりやすく、有難いなと思った。
仕事のことを考えないのは難しいにしても、お風呂に入って美味しいものを食べることで自分自身が回復することは容易に想像できたからだった。
親に「勉強しなさい。」とは言われても、何をどう勉強すればいいのか分からなかった人は多いのではないのだろうか。
やればいいのは分かるけれど、皆方法を知らないし、調べても正解にたどり着くことは容易ではないと思う。
「ゆっくり休んでね。」の"休む" が、皆それぞれ具体的であれば、いいなと思った。
あれから少し考えてみたけれど、私の中で休むことは何時間も寝転がることではなかったと気付けたことは大きかった。
最近始めた趣味の運動をしたり、旅行に行ったり、美味しいご飯を食べたり、珈琲屋さんや紅茶屋さんカフェ巡りをしたり、友だちと話したり、近所の方が育てたラベンダーが詰まった匂い袋を嗅いでみたり、JYPのオーディション番組を見て頑張る子たちを応援したり。
傍から見れば「もう元気になったんだね。」と言われそうなことばかりだったけれど、それらが私の"休むこと" だ。
だからこれからは「ゆっくり休んでね。」ではなく「ご飯いつ食べに行く?」と声をかけて欲しい。
それなら私は思う存分休めるので。
まずは10月、思い切り休むぞ
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