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小説 「吉岡奇譚」 35

35.「出来ることを、やれ」

 いつもの公園で、朝の読書を楽しむ。すっかり暖かくなり、日差しが心地良い。
 もう新学期が始まっているのか、私が この時間帯に この場所で、学齢期の児童に出くわすことは無くなった。
 朝、この公園に集まってくるのは、健康意識の高い高齢者が ほとんどである。天気が良ければ、彼らは仲間とのウォーキングやランニング、ゲートボールを楽しんでいる。
 私が彼らと話すことは ほとんど無いが、過去には何人かと挨拶を交わし、名刺をお渡ししたこともある。私が【不審者】ではないことは、立証済みである。
 彼らが私の著書をお孫さん達に買い与えてくれることを、心の片隅では期待している。

 藤森ちゃんが出勤してくる時間を前に、帰宅する。

 持ち帰った本を資料室の棚に戻してから、リビングに置き去りにしていたスマートフォンを手に取る。
 私が外出している間に、複数回、夫からの着信があったようだ。
 折り返しかけても、この時間帯だと恐らく繋がらない。(彼は、自分のスマートフォンをロッカーにしまった状態で仕事をする。)
 私は、会社の固定電話にかける。
 事務職の女性に、本名と、夫からの着信があった旨を伝えると、保留となり、5分近く経ってから本人が出た。
「諒ちゃん、悪りぃ!俺、また会社のUSB持って帰ったっぽい!!」
「また やらかしたのか!?……どこにあるんだよ?」
「それが分かんなくてさ……」
「まさか洗濯してないだろうな?」
「うわぁー!……社長に殺されるぅー!!」
小学生のようなことを言い始めた。
「最後に、どこに入れたんだ?作業着のポケットか?」
「現場用のズボンのポケット……のような気がする」
「そのズボンは、洗ったのか?」
「洗った……はず。分かんねぇ。和真に訊いて?」
「わかったよ。……それで、見つかったら、届ければいいのか?」
「お、お願いします。先生……」
「了解」
 電話を切り、洗濯機がある脱衣所に向かう。
 我が家の洗濯機の側には洗ったタオルをしまう棚があり、その上に、洗濯の前にポケットから取り出した小物を入れるための小さなトレーを置いてある。
 そのトレーの中に、飴や目薬、夫が毎日飲んでいる安定剤、硬貨に混じって、例のUSBメモリが入っている。
 倉本くんは、きちんとポケットの中身を出してから洗ってくれていた。風呂に入った後で、それを回収していかなかった夫のミスである。(持ち帰ってしまうこと自体が『ミス』ではある。)

「で、これを届けるのか……面倒くさいなぁ」
とはいえ、仕方ない。
 出かける前に、和室を覗く。倉本くんは、スマートフォンを充電しながらゲームをしているようだった。
 私は「悠介の勤務先に忘れ物を届けてくるから、藤森ちゃんが来たら鍵を開けてやってほしい」と頼んだ。
 彼は「わかりました」と応じ、私はすぐに出かけた。


 夫の勤務先の事務所に赴き、彼にUSBを手渡すと「うわー!和真ー!ありがとー!」と叫んでいた。
「持ち帰り対策を、どうにかしろよ……」
「それが出来りゃあ、苦労しねぇのよ」
「まったくもう……」
「諒ちゃんも、ありがとう」
「……“No worries, mate.”」(※和訳:「気にしないで」)
「なんで英語?」
「No reason.」(※和訳:「なんとなく」)
「意味が分からねーよ……」
「早く仕事に戻れよ」
「お、おう!」
 いそいそとパソコンに駆け寄ってUSBを挿している夫の姿を見届けたら、私は別棟にある現場に足を運んだ。

 昼休みを前に、皆 急いでいる。邪魔にならないよう、こっそり裏手に回り、換気のために開いている窓から、そっと様子を伺う。
 見慣れない男性社員が増えている。30代だろうか。夫より若そうだ。(夫は38歳である。)
 彼は真新しい制服を着ているが、動きは洗練されている。そして、常務や他の役職者達を前に、堂々としている。他社で経験を積んだ熟練者が、引き抜かれてきたのだろうか……。
「先生、どうしたの?」
窓から中を覗く私の背後から声をかけてきたのは玄ちゃんである。現場の建物の裏には、倉庫がある。彼は、そこから出てきたのだろう。
「やあ。お疲れ。悠介に、忘れ物を届けに来たんだ」
「どうして、そんな所から覗いているの?中に入ればいいのに……」
「危なそうな匂いがしないかどうか、確かめてから入るんだ。……中で舞っている粉の、材質によっては倒れるからね。私……」
「へ!?」
「アレルギーというのは、恐ろしいものだよ」
「アレルギーなのに、働いていたの!?」
「働き始めた頃は、平気だったんだ……。
 そんなことより、新しい人が入ったんだね。社員さんだろ?」
「……新しい会社の、社長になる人」
「おぉ!いよいよA型を創るのかい!?」
 「A型」というのは、一般就労が難しい障害者を雇用する「就労継続支援A型作業所」のことである。
「まだ、確定じゃないよ。常務が反対してるから……」
「どうして反対するんだ!?画期的なプランなのに!」
「僕は知らないよ」

 私は、玄ちゃんとの立ち話の後、社長にのみ挨拶を済ませ、速やかに帰路についた。
 
 私は、社長が掲げるプランに概ね賛同している。しかし、新たに設立する子会社を「特例子会社」とするか「A型作業所」とするか、あるいは「現状維持」とするかで、役員・株主の間で意見が割れていることも知っている。
 社長としては「A型作業所」を設立して国からの助成金を受け取ることで親会社の経営を立て直したい考えなのであるが、製造業に対応できる福祉の専門家の確保は難しく、また「現行の『障害者雇用枠』のままで充分だ」という反対意見に押されている。
 私としては、現在『障害者雇用枠』に在籍している夫が、今後も「体調を最優先に働き続けられる環境」が続いてくれれば、ひとまず それで良いのであるが……自身が「A型の職員に挑戦してみたい」という、若き日に抱いた願望に、少なからず未練がある。
 「かつての自分のように、ろくでもない一般企業に人生を壊された人々に寄り添う仕事がしたい」という、身の程知らずな願望が、やはり未だに燻っている。
 関連書籍の執筆だけではなく、具体的な【活動】や【労働】の形で、障害者福祉に貢献してみたいのだ。
 この話をするたびに、夫や坂元くんは理解を示してくれるが、岩くんは頑なに反対する。彼は担当編集者としてではなく、一人の友人として、私の健康を気遣い「貴方は、それを【職業】にすべきではない」と言う。「一人一人に深く入れ込んで、燃え尽きてしまうから」だという。
(彼は、正しい……。)
 だからこそ、私は【株主】なのだ。


 考え事をしながら運転していると、あっという間に帰り着いた。
 インターホンを鳴らし、応対を待たずして鍵を開ける。
 藤森ちゃんが玄関まで降りてきて、何かを訴えたそうに和室を指し示す。顔つきが険しい。
「倉本くんが、どうかした?」
彼女は「わからない」とか「話す」「聴こえない」「出来ない」等の手話単語を、脈絡の分からない順序で列挙する。
(どういうことだ……?)
 和室に入ると、その意味が分かった。
 ゲームをしていたはずの彼が、部屋の隅で丸くなって、フードを被った上から頭を抱えて「わかりません」「出来ません」「やめてください」と、一人で延々と繰り返しているのだ。
「いつから?」
彼女の答えは「約一時間前」である。
 私は、彼の側まで行って、正座し、声をかける。
「倉本くん。ただいま。……何かあったかい?」
案の定、彼は応えない。(おそらく、私に気付いていない。)
「僕、そんなことしません!!」
耳を塞ぐかのように頭を抱えたまま、涙声で叫んでいる。
 私にも、こんな状態に陥る時は多々ある。
「どうしたんだよ。……誰かに、何か言われたのかい?」
先ほどよりも大きな声で言ってみるが、彼の様子は変わらない。
 畳の上に放り出されている、彼のスマートフォンの画面は真っ黒だ。何らかのメッセージを受信したかどうかは分からない。
「どうして、駄目なんですか!!?」
 震えながら、おそらくは幻聴に反論している彼に、私は一方的に語りかける。
「『駄目』じゃないよ。……君は、何も悪い事なんかしていないし、すごく真面目な人じゃないか。悪く言う奴が、どうかしてる」
 私は「倉本くん」と呼びかけながら、慎重に近付き、震えている肩に触れてみる。
 彼は「うわぁ!!」と声を上げると共に顔を上げ、睨みつけるように私の顔を見て、反射的に私の頸を掴もうとした。
 私は、その手首を掴む。
「ごめんよ、驚かせて……」
 手首を掴んだまま詫びると、彼は、やっと私が誰なのか判ったようで、悲痛な顔をして「ごめんなさい」と言った。私が手を離してやると、すぐに正座して、両手を体の後ろに隠した。
「すみませんでした、先生……」
手を後ろにやったまま、声を震わせて、頭を下げる。まるで、後ろ手に縛られている罪人のような格好である。
「……具合が悪そうだね」
「すみません……」
「君にも、幻聴があるようだね」
「…………あります……」

「藤森ちゃんが、心配していたよ」
「え……?あ、あ……すみません……」
同じ部屋に彼女が居ることに、そこで ようやく気付いたようで、彼は、彼女のほうを向いて、頭を下げた。
「そろそろ、昼ごはんにしようかと思うのだけれども。食欲はあるかい?」
「あまり……」
「少なめにしようか」
「はい……」


 食事中、彼はほとんど発話をせず、食べ終わってからも、ずっと暗い顔をしている。
 藤森ちゃんが食器を洗ってくれている間に、私はある提案をした。
「……倉本くん、将棋は出来る?」
「出来ません……」
「囲碁は?」
「わかりません……」
「オセロは?」
「わかります……」
「よし。じゃあオセロで勝負しよう」
 彼は きょとんとしていたが、私は構わずアトリエのクローゼットからオセロ盤を出してきて、対局の準備をした。
 先攻・後攻を じゃんけんで決めて、私が先攻となった。
 駒は白が平面、黒が凸凹の付いた面になっていて、盤上も立体的な格子で区切られている。感触で色の違い・空いているマスが判り、盤上に置いた駒がズレにくい。視覚障害者向けのオセロ盤である。
 私が、全盲の知人に影響されて買ったものである。

 彼は、あまり深く考えずに駒を置いている印象だ。
 むしろ「心ここに在らず」といった感じだ。私の意図が読めず、困惑しているのだろう。

 そして、彼は食事の前に私にしたことについて、深く反省しているようだった。
「君は、穏やかなほうだよ」
彼は、きつく叱られた直後の子どものような、さも心細そうな表情で、盤上から目線を上げた。
「……私なんて、幻聴に動揺して、何度、人に怪我をさせたか……分からないよ」
「え……?」
「悠介が、世界で一番、私に殴られているだろうね……」
「先生が、悠さんを……?」
「お恥ずかしいよ……。『DV』としか言いようが無い。……それでも、彼は絶対に私を責めない。『病気によるものだから仕方ない』と言って……絶対に責めない」
私は、淡々と駒を置き、裏返す。
「いやいや……病気でも『暴力』は『暴力』だから。やめるに越したことはない……」
「先生にも……幻聴がありますか?」
「あるよ。20代の頃に比べれば、ずいぶん減ったけれども……何年経っても、何度でも、過去に浴びせられた ひどい言葉が、頭の中で響くんだ…………それが『過去』ではなくて『リアルタイム』のような気がしてしまって、すごく苦しくなる。あるいは……何年経っても治らないことが情けなくて、苦しくなる」
「僕も……似たような感じです……。頭の中で、人の声がします……」
対局は粛々と進んでいる。
「養鶏場に居た頃の記憶?」
「そう、ですね……ほとんどは……」
「何か……幻聴が聴こえ始める『きっかけ』のようなものはあるかい?卵や鶏肉を食べたら、とか……特定の時間帯が苦手、とか……」
「わかりません……」
「それが分かるようになれば、ぐっと生活が楽になる。避けるべき物とか、薬を飲むタイミングとか……そういう【対策】が、よく解ってくるから」
「あ、ありがとうございます……」
いつの間にか、対局は圧倒的に私が優勢となっている。
「今、そうして冷静に『反省』とか『後悔』が出来るなら……問題ないよ。いずれ【対策】が分かってくるだろう」
「はい……」
 一戦目は私が勝ち、二戦目は彼が先攻で始めた。
「先生は、囲碁や将棋も強いんですか?」
「ただルールを知っているだけだよ。決して強かない。……まともに戦えるのは、オセロだけだね」
「それでも、強いです……」
 結局、彼とは3回勝負をして、全て私が勝った。
 だが、私の主たる目的は勝負ではなく【面談】である。
「このセットは、2階に置いておこうか。……気が向いたら、悠介や藤森ちゃんとも、勝負してごらん」
「は、はい……」


 その夜、夫は帰ってくるなり、またしても「和真ー!ありがとー!」と叫んだ。
 しかし、倉本くんのほうは、訳がわからず、困惑している。
「えっ……えっ……」
夫がUSBメモリのことを説明すると、やっと「あ……」と、納得したような声を出した。
「おまえのおかげで、中身は無事だったよ!ありがとうな!」
「い、いえ……」
 この日は、夫は自分で洗濯をしていた。

 風呂から上がり、2階に上がってきた夫のために おかずを並べながら、私は言った。
「今日、現場で新しい社員さんを見かけたよ」
「あぁ……。あれ、社長の彼氏だ」
「彼氏!?」
「よそで職人やってたみたいだな。しかも大卒だ。3DのCADが使えるし……大特に、リフトに、ドローンの免許も持ってる」
夫は、箸を手に語る。私は、何度も台所と食卓を往復する。
「……子会社の社長候補だと聴いたぞ?」
「マジか!俺、それ知らね」
「まぁ……玄ちゃんから聴いた『噂』だ。ご本人とは話してない」
「いや、でも……あり得るかもな。いずれは、社長の旦那になるだろうし」
「善い人だと良いね」
「そうだな」
 私が配膳を終えるなり、夫は「いただきます!」と宣言し、2度目の夕食を食べ始めた。
「だけど……俺、子会社は要らないと思う」
「おまえも『反対派』なのか!?」
「反対っつーか……『今のままでいい』と思うんだ。前の工場長が、ずっと大事にしてきたことを……このまま続けていければ、うちは充分『障害者でも働きやすい会社』だよ。
 本業は『製造業』なわけだし、わざわざ『国から金を貰うために【福祉】の看板を出す』ってのは……おかしいと思うな」
いつになく、立派なことを言う。
「しかし……出来る範囲の肉体労働は『リハビリ』になるし、新しい技術を身につけることは『職業訓練』だ。……新しい仲間と出逢って、真剣に ものづくりを学ぶことを通じて『忌まわしい過去と決別する』ことも、出来るかもしれない。……少なくとも、私は あの現場で働いて、身体的な状態は劇的に改善した。自分に【殺し屋】以外の職歴が出来て、大きな自信になった。……あの場所で『A型』をやることに、大いに可能性を感じている」
「ガチで仕事すれば『リハビリ』じゃ済まねぇし、むしろ、いつ大怪我して身体のパーツ失くすか分かんねぇよ。それに……【福祉】の看板が出せる衛生レベルじゃねぇ。……学校並みに綺麗な現場のままで、利益は出せねぇ。毎日ドロドロになるまで造り続けねーと……全員の人件費は出せない」
「職人は製造に専念して、清掃作業を、利用者さんに担当してもらえばいいだろ」
「掃除すら出来ねぇ奴が、一人前の【職人】になれるかよ」
 彼にとって、製造業の仕事は「収入を得る手段」ではなく「生き方」そのものだ。ある意味で宗教的とも言える【信条】や【流儀】がある。
「まぁ……社長が本当に それを始めるんなら、俺は協力するけどな。……馬鹿みたいに事務仕事が増えるだけで、むしろ苦しくなると思うぜ?会社としては」
 彼は福祉作業所で働いたことはないが、私や玄ちゃんから、かなり詳しく聴いている。特に、玄ちゃんは『エキスパート』である。自身が過去に働いてきた作業所の内部事情を詳細まで記憶し、その長所も、短所も、包み隠さず友人達に話す。一般人がインターネットでは知り得ない部分について、彼は非常に詳しい。
「俺は……今は、和真と藤森ちゃん守れたら、それでいいんだ。今の俺に出来るとしたら……それだけなんだ。会社のことは……もういい。俺が役員になる日は……来ない」
 だんだん、夫は熱意よりも眠気が勝ってきたようだ。机に左肘を着いて、背中を丸めて、サイか何かのように大きな鼻息をつきながら、野菜炒めを噛みしめている。
「……私も、風呂に入ってきていいかい?」
「あぁ。後はやる」

 脱衣所で服を脱ぐ時に、例のトレーに目をやると、今日もUSBメモリが入っていた。
「お疲れだねぇ……」
 私は、それを入浴後に本人に返した。
 彼はもう寝室に居て、敷き終えた布団の上に仰向けになって、スマートフォンを眺めていたのだが、私がUSBメモリを見せると「俺、もう駄目だー!!」と騒いでいた。
「俺は、もう、ポンコツだ!!ダメダメだ!……ランキングも、和真に抜かされるしよ……」
スマートフォンを放り出し、転がるように寝返りを打って、うつ伏せになる。隣に敷いた、私の布団に乗っている。
 USBメモリは、受け取る気が無いようだ。
「ランキング?」
「スマホゲームの……」
「同じゲームしてるのか」
「学生の頃から やってるらしくてさ。えぇんだ、あいつ……超レベルけぇの。無課金なのに……」
(今日のあれの、引き金はゲームか……?)
仮説に過ぎないが、長く遊んでいるゲームに纏わる『嫌な記憶』は、存分に ありそうだ。
 夫との競い合いが『楽しい思い出』として残ってくれれば良いが……。
「おい、悠介。倉本くんに……あまり、鶏のことや、過去のことを訊くなよ」
「何だよ急に?」
「……彼にも、幻聴と『思い出し激怒』がある。……今日、昼間にキレた」
「マジか」
「すぐに冷静さを取り戻して、かなり反省していたけれども……気をつけてやらないと」
「……そうだな」

 その後、私は夫を転がして布団を取り返し、彼が自分の布団に入るのを待って、消灯した。



 深く傷ついた人に寄り添うことは、必ずしも【職業】でなくとも良い。


次のエピソード
【36.動揺】
https://note.com/mokkei4486/n/ncc6db9090259

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