読書日記
3月20日(月)
久しぶりに読書日記を書いたら思っていた以上に楽しくて、これは継続したい!と思ったものの、しかしどの媒体で続けようかと悩む。noteで書いても良いんだけど、日記だけの場所にするのもアリかなぁなんて思いつつ、ブログサービスをながめる。たくさんあるので悩む。悩んだときは掃除をして頭をスッキリさせよう!と思い立ち、あちこち中腰で掃除をして気づいたら腰が悲鳴を上げた。急なことで自分でもビックリした。そうか、体って衰えるんだなと、当たり前のことを自分の体で実行してしまってうろたえる。
読んでいたのは『家が好きな人』。
私はこの本を読むまで、自分の家が一番ホッとする場所だと思っていた。しかしこの本に登場する家での生活を楽しむ女性たちをながめ、どうも私の感覚とは違う気がするぞと思った。そして、私は家が好きというよりも「外が苦手」だったことに気がついていろんなことが腹落ちした。外よりも家のほうがマシという感覚でいて、だから家の中でもモヤモヤをため込んでいることが多く、この本の女性たちのような、家に居ることでの喜びや嬉しさを感じたことがなかったんだなと気づいた。この本のように、好きという気持ちを全開にして家との時間を過ごしていけたら、どんな世界が広がっているのかと空想し、私もまずは便利だからという目線ではなく、好きだからという気持ちで家具を選んでみることから始めてみようかななんて考えていた。
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3月21日(火)
祝日で浮かれている子どもたちをながめ、学校が休みというだけで体中から嬉しさを爆発させることができる彼らをうらやましく思う。私は斜に構えてしまうタイプの子どもだったので、嬉しくてもその感情をひた隠しにしていたから、嬉しいときに笑う、悲しいときに泣く、といった当たり前の感情を表に出せる我が子を不思議な気持ちでながめてしまう。そして休日恒例の「ねぇママ、あのね」を体感では3億回ぐらい耳にし、二人ともが一度に喋るもんだから聖徳太子ばりに話を聞き分けつつ、夜になると耳がグッタリしていることに気づいた。あ、いまは聖徳太子じゃなくて、厩戸皇子って名前なんだっけ??
読んでいたのは『ルイーザ・メイ・オールコットの日記―もうひとつの若草物語』。
『若草物語』を読んだことはないけれど、日記本なら何でも読みたいので手に取った本。オルコットは『若草物語』だけなのかと思っていたら、かなりの作品を生み出している人だったので驚いた。しかし作品を書き始めたころは、小説の収入よりも家庭教師の収入のほうがはるかに高くてビックリするけれど、これはもしかしたら現代でも同じなんだろうか?と、私にはよくわからない世界の収入の差について思いをはせた。
姉のアンナが知的障害を持つ子どもたちに勉強を教える仕事をすることになり、障害のある子に教えるなんて大変なことを姉がしなければならないなんて、姉がかわいそうだとオルコットは日記に残している。こういう感覚はいまも昔も変わらないのだなと思った。
我が子に障害があるせいか、こういう描写に傷つくこともたまにあるんだけど、しかし私自身、支援する側として働いた経験があるからこそ、このオルコットの「かわいそう」という感覚はわからないでもない。支援する側になるか支援される側になるかで、言葉の重みがどんどん変わっていくのを目の当たりにしている感じ。
そしてこういう正直な気持ちを書き残すことは、とても大事だなと思った。この時代でも障害児を助けることが「大変」だと思われていたこと。そういう当時の感覚は、書き残されていなければ知ることすらないわけで。だからといって個人的な日記を本人の許可もなく出版しても良いのかはわからないけれど、それでも私はこのオルコットの日記を通して、日記の良さをあらためて実感していることに嬉しさが勝っている。正直な、素直な気持ちを残す。それがとても良いなと思うのだった。