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読書日記・もっと肩の力を抜いて

1月4日(土)

冬休みになってからというもの、「今日は何曜日だっけ?」と、まるで呪いのように娘が毎日聞いてくる。カレンダーを見てごらんよ、今日は・・・えーっと、何日だっけな??? えっと・・・ほら、あー・・・4日???だっけ???? だから、今日は土曜日??じゃない???? みたいな会話を年末からずっとしている。私自身も、今日が何日で何曜日なのか、はっきりと明確に答えられなくなっているので、いつだって答えがあやふやだ。私の答えがはっきりしないから、娘は不安になっているのかもしれない、とこれを書いていて気がついたけれど、人生の中ではっきりと答えを出せた問題など一度もなかった私が、今さらはっきりとした人間になれるとは思えない。許せ娘よ、母は我が道を行く(改善する気ゼロ)。




1月5日(日)

佐野洋子さんの『死ぬ気まんまん』にあった、佐野さんのお父さんの言葉がずっと心に残ったままだ。

「活字は信じるな、人間は活字になると人の話より信用するからだ」

『死ぬ気まんまん』より引用

本に書いてあるというだけで、私は無条件に物事を信用しすぎるきらいがあるもんだから、お父さんの言葉がより一層身に染みるんだと思われる。

ちょうどこの日、夫と意見の相違があった。何が原因だったのか忘れてしまったけれど(どうでもいいことでケンカしすぎているので、いちいち覚えていられない)、「前に読んだ本には○○と書いてあったんだから、○○しないとおかしい」というようなことを、私は夫に伝えた。すると夫は、

「本に書いてあることをすべて信用するのはモケリンの勝手だけど、それを俺に押しつけないで欲しい」

と言った。まったくその通り。しかし勝気な性格の私は、その言葉をその場で受け入れてしまえば自分が負けてしまう!!という焦りがあったようで、夫の発言を無視して、あーだこーだと文句をくり返した。いやはや面倒くさい嫁だよ、まったく。


活字になっているというだけで、書籍になっているというだけで、そこに書かれていることがすべて正しいなんてことがあるだろうか。考えるまでもなくそんなわけないんだけど、私は「本に書いてあったんだからそれが正解だ!!」と、短絡的にとらえてしまうらしい。これはとても危険だ。詐欺的なことが書かれていても、それを疑うこともなく信じてしまうかもしれない。いやもう何かしらの情報に騙されている可能性のほうが高い気がする。

本に書いてあったことがどんなにいいことであっても、まずは落ち着くこと。興奮してすべてを信用しすぎないこと。「まずは落ち着け」を座右の銘にしたほうがいいかもしれない。





1月6日(月)

矢部太郎さんの『ぼけ日和』を読む。認知症がどういう症状なのか、私はよく知りもしないんだけど、何だかとてつもなく大変そうだという思いだけはつねにあって、そのため、親が認知症になったらどうしよう・・・という不安をずっと抱えて生きてきた。幸い(?)母は癌で亡くなってしまったので、残るは父。さてどうなりますか、と思いながら読んでみたら、こんな言葉が出てきてページをめくる手が止まった。

介護する人に余裕がなければ
患者さんを笑顔にすることはできない
介護家族だって
仕事に行っていいし
遊びに行っていいんです
毎日笑っていいんです

『ぼけ日和』より引用

『ぼけ日和』の原案を担当された、認知症専門医の長谷川嘉哉さんの言葉。

この言葉を受けて、介護は24時間365日、介護される人と向き合わなければいけないものであり、そのために介護する側は、自分の人生にある楽しさとか喜びなどをすべて捨てて、介護だけしか考えてはいけないものだと私は思って生きてきたことに気がついた。

実際に自分が介護する側になった時、介護は体力以上に精神がやられるものだから、全力で向き合うと笑うことすらできなくなるということを、私は経験して理解していたはずだった。しかし『ぼけ日和』を読んで、介護する側が仕事に行くのはともかくとして、遊びに行くなんてダメだろうという思いが未だに根深くあることに気がついてしまった。

介護する側が自分の人生から喜びや楽しさをなくしてしまえば、余計に介護される側への不平不満がたまってしまうというのに、私はどうしても「介護する側は献身的でなければならない」という思いが強くあるらしい。

本にもあったけど、介護は「できる範囲」のことができたらよくて、自分の「できる範囲」以上のことをしようと思わなくていいということを、私は肝に銘じておいたほうがいい。

介護する側が笑顔でいられるように、笑顔を忘れないように、肩の力をもっと抜いても大丈夫なんだよ、といった声が、『ぼけ日和』から聞こえてきそうな気がした。とても優しい本だった。



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