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読書日記・そういうのを抜きにして

1月11日(土)

「誰かに読まれる前提で書かれた日記は、たいして面白くない」といった話を聞く。アンネの日記や、高野悦子さんの日記が傑作だと言われているのは、誰にも読まれないと思って書かれた日記だからなのだろうか。

誰にも読まれない日記がもっと読みたくなったけれど、誰にも読まれない日記は誰にも読まれないから存在しているのであって、私に読まれてしまったらそれは、誰にも読まれない日記ではなくなる。そうなると面白さって半減してしまうのかな。

そもそも日記は、誰かに読まれるためのものじゃなく、自分のために書くものなのかもしれないよね。読まれない前提で書くから、だから誰かの悪口だったり愚痴だったり、本来は表立って書けないことであっても、誰に文句を言われるでもなく書ける場所であったはず。ネット上に書く日記は、たとえ匿名であっても多少のぼかしが必要になるので、あけすけな文章って書きづらい。そこが面白くないと言われる理由なんだろうか。分からない。

そんなことを思いながら『文藝 2025年春季号』を購入。日記について考えている今のこのタイミングでこの特集。ありがたい。

誰かに読まれるとか読まれないとか、そういったことは関係なく、私は日記が好きだなと本を読みながら思う。有名な人とか無名な人とか関係なく、誰が書いたものであったとしても、日々の記録って面白い。紹介されているいくつかの日記本も、また読んでみようと思った。





1月12日(日)

ついこの前、冬休みが終わったと思っていたのに、なぜか子どもたちが家にいるので、あぁ世間は三連休なのか、とカレンダーを見て気がついた。遅い。

今年は毎日、何かしら文章を書こうと思っていて、それがこのnoteの日記なんだけど、しかし、子どもたちのピーチクパーチクがうるさくて全然文章を書くことが出来なかった。文章を書く作業に必要なのは、孤独だと誰かが言っていたけれど、まさにその通りだと痛感する。


鈴木大介さんの『貧困と脳』を読む。本の帯にあった「働けない脳」って何?と思って思わず手に取ってしまった一冊。

脳の働きのせいで、やるべきことが出来ない人たちがいるのだけど、脳の働きって目で見ることが出来ないので、出来ない人たちを「サボっている」という目で世間は見てしまうという話にぞっとした。分かりやすくサボっている人も確かに存在するけれど、中にはサボっているわけではなくて、ただ困っていただけの人たちがいたかもしれないという事実を、私は考えたことがなかった。

生まれつき障害があるため、脳の働きに特性がある人たちだけではなく、著者の鈴木さんのように脳梗塞で脳の働きが変わってしまった人、うつ病などでメンタルがやられてしまった人も、脳の働きが変わってしまうために、以前のように働けなくなる場合があることを知った。

私自身もメンタルがやられて前職も前々職も退職しているんだけど、以前は出来ていたことが出来なくなった時、私は自分を責めてばかりいた。自分の我慢が足りないとか、自分の頑張りが足らないとか、仕事が出来ないことを自己責任だけで片づけようとして、メンタルがどんどんやられていったんだということを、この本を読んで知った。

「働かない」ではなく「働けなくなった」んだと知ることができて、不思議な解放感があった。「働けない」ことに解放感があるなんておかしな話だけど、出来ない自分を責めることをしなくてもいいんだと知ることが出来たことで、大きな安心を得られた気がする。

以前のように働けないのなら、どうすればいいのか。そこに意識を向けていけたらいいな。自己責任とか自罰感情とか、そういうのを抜きにして。





1月13日(月)

祝日なのを忘れて、目覚まし時計とともに起きる朝。おはようございます。今日は成人の日らしいんだけど、成人の日の対象年齢が何歳なのか分からなくて混乱。成人は18歳で、成人式は20歳???? 今の子って面倒くさいのねと、成人してから数十年のおばさんは思うのでした。成人した子がいてもおかしくない年齢に自分がなっているという事実がおそろしい。


佐野洋子さんの『ヨーコさんの“言葉” わけがわからん』を読む。佐野さんの文章にあるするどい指摘が、北村さんの絵でより一層にするどさを増して心に届く感じがとてもいい。中には、今の私に理解できない言葉もあるけれど、いつか年を重ねた時、それらを理解できるようになったらいいな、と思わされるものが佐野さんの文章にはある。佐野さんが書いた文章と同じ年齢になった時、また佐野さんの文章を読んで、理解できる自分になっているといいな。そのためにも、本が読めるぐらいには元気でいたいもんだ。



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