幸せレベルを上げて生きたい
『復活への底力』を読み終わった。
出口治明さんが脳卒中で倒れてから、大学へ復職するまでのリハビリの過程などが書かれている本だったので、脳卒中ではないけれど日頃からリハビリを受けている娘を持つ身として気になったので読んでみた。
脳に損傷を受ければ、今までと同じような生活をするのはとても難しいらしい。リハビリをしたからといって、今までとまったく同じように体が動くわけではない。麻痺が残っているのなら、その麻痺がある状態でも生活ができるようにリハビリをしていく。
リハビリをしたからといって治らないのであれば、リハビリをする意味ってあるのだろうか?と私は思っていた。しかし出口さんはリハビリを通して、話ができるようになったり、難しいとされていたトイレやお風呂も一人でできるようにと努力されていて、仕事にも復職されたらしい。
娘のリハビリを眺めていると、あまり変化がないように思えるけれど、出口さんのように精力的にリハビリをした場合、変化が明らかになる場合もあるんだと教えてもらえた。リハビリに意味がないわけじゃない、変化には時間がかかるんだな。あとは本人のやる気。ここで大きく差が出そう。
ただ思うに、もともと自分の体が動くことを知っている人は、体を動かすイメージを持っている人が多いはず。しかし娘のように体を動かすことができない人は、動くイメージがつきにくいとは思う。リハビリでどのような変化がもたらされるのか、娘にはイメージしにくいんだろうなと『復活への底力』を読みながら思った。
『復活への底力』を読みながら、岸田ひろ実さんの『人生、山あり谷あり家族あり』を思い出した。
岸田ひろ実さんも突然の病気で、車椅子生活を余儀なくされた一人。障害を抱えることになったときには絶望もされたようだけど、私の中で岸田ひろ実さんは、いつだって笑顔で人生を楽しんでいるというイメージがある。
岸田さんが人生を楽しめるようになったのは、障害を抱えても、自分にはできることがあり、やりたいことがあるという使命感のようなものがあったんだろうと『人生、山あり谷あり家族あり』を読みながら思った。
それは出口さんも同じで、自分にはまだ学長としてやらなければいけないことがある。そのためには大学へ復帰しなければならず、復職のために必死でリハビリに奮闘された。
お二人に共通しているのは、たとえ障害を抱えることになっても、できることがある、やりたいことは見つかる、という姿を見せてくれていることじゃないだろうか。
私自身、障害を抱えている娘を持ち、この子はこの先どうして生きていくんだろうかと不安になるばかりだった。けれどこの先どうやって生きていくのかなんて、障害があるなし関係なく誰にもわからないこと。
障害があってもなくても、諦めてばかりの人生を送るのだけはイヤだなと、出口さんや岸田さんの本を読みながら思う。できないことを嘆くよりも、できることを見つけていきたい。そこにはたぶん時間がかかるから、長い目で見ていく余裕を持っていたい。なかなか簡単じゃないけども。
*
そんな最近の読書は『「脳にいいこと」だけをやりなさい!』。
この本の序盤で、脳の中には「幸せ度」の目盛りがあるという話があった。
どんなときでも幸せだと言える楽観的な人もいれば、私のように何をしても悲観的に物事をとらえてしまうような人もいるものらしいのだけど、この違いは「幸せ度」らしい。
本人の「幸せ度」が高いか低いかで、「幸せ度」に違いがあらわれるらしく、お金があっても本人の「幸せ度」が低ければ満たされない思いを抱え、お金がなくても「幸せ度」が高ければ幸福を感じられるといった話が書いてあった。
そしてこの「幸せ度」は、意識的に変えようとしなければ、いつまでも同じ値にとどまっているらしい。
そのため、下半身麻痺になってしまった人でも、
と書いてあってビックリした。
出口治明さんも岸田ひろ実さんも、もともと持っていた幸せの度合いが高かったので、今も笑顔で生活されているのかなと思った。
この「幸せ度」の設定は、自分でいつでも変えることができるらしく、そのために何をすればいいのかが『「脳にいいこと」だけをやりなさい!』には書いてあるみたい。周りの状況次第で幸せが変化すると感じていた私とって、自分次第で幸せを変化させられるのであればいくらでも勉強します!!という気持ち。「脳にいいこと」を身につけたい。
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