大好きは制御不能だから大好きなのではないか
12月になり、そろそろ来年の手帳をどうしようかと悩んでいて、というよりも私の場合、手帳については一年中ずっと悩みの種で、それは手帳に対する愛が大きすぎるのが原因だと自分でも気づいている。
色んな手帳を使いたいし、Instagramで人様の手帳の使いかたを見るたびに「こういう使いかたもあるんだ!」という発見があってマネしたくなり、そうなると自分の手帳の使いかたが定まらない、といった流れがあったりする。
最近は手帳熱もだいぶん冷めていて、市販されている手帳はすべて使ってみたい!!!!という欲は減っているけれど、しかしそれでも12月になると「来年の手帳をどうしようか真剣に考えないと、在庫もなくなるし(すでに無いものもあるかも?)、早いところ準備しないと!!!」という気持ちになるのだった。
そんな手帳バカのような私だけど、ある日、
「日記などは残しません。過去を振り返っても仕方がないので」
と仰っている人がいて、手帳に対する考えが少し変化した。
私自身、もう何年も手書きの日記を残しているけれど、その日記を見返すことってほぼない。たまに子どもたちが病気になったりしたら、前回はどう対応したっけ?症状はどんなだったっけ??など、そういった確認をしたりするけれど、それぐらいでしか活用していない。しかもそれ自体も手書きのために検索機能がないので、探しきらずに諦めること多数。
毎日せっせと日記をつけていても、それを見返すことが無いのなら、何のために日記をつけているのだろうか。それに「過去を振り返っても仕方がない」という意見も確かにその通りで、日記を書いて過去を振り返っても、そこに意味はあるのだろうか?なんてことを考えてしまうようになった。
日記を書くことは、もう数十年も続けている習慣なのでいまさらパッとやめられるわけじゃないんだけど、それでも私の中で手帳に対する愛が少しずつ失われているような気がした。
残す必要がないのであれば、そんなに高い手帳を買う必要はないんだろうなと思うと、いままでのように1000円以上の手帳を買う必要はないよね、100円でも良いんだよねと思いながら、今のところ、ほぼ日手帳のカズンを買おうか検討中。カズンのお値段は4730円。手帳に対する愛は冷めてないらしい。
*
そんな最近の読書は『窓辺の愛書家』。
90歳の女性ペギーが死亡し、それは心臓発作で処理されるものの、実は誰かに殺されたのではないかと考えた介護士ナタルカが、事件の真相をさぐろうとするお話。
ナタルカの友人である元修道士のベネディクトは、ペギーが殺されたのであれば良いなと思っていて、そんな風に考えてしまうのは日ごろの刺激が足りないからだと考え、もっと外に出たほうがいいんだろうなと思う場面がある。
これを読んで、こういう下世話な問題って自分でもイヤなんだけど、確かにあるよねと思った。誰かの不幸を楽しいとか面白いと感じてしまうことって、いままでの人生でも少なからずあったし、そういうときの自分ってたぶん、何かが満たされてないんだろうなと感じていた。
自分の人生を楽しんでいれば、人様のことに興味がわかないんだといろんな本に書いてあったし、しかしその自分の人生を楽しむというのが私は全然つかめないままで、たぶん「人生を楽しむ」のハードルが高すぎるんだろうなと気づいた。
推し活動と呼ばれるものにしても、何かを推せるぐらい好きになれるのは、心の優しい人だけなんだろうと勝手なイメージを抱いていた。心がやさぐれている私は、何かを好きと思うことが滅多にない。反対に何かを大嫌いと思うことも滅多にないといえばないんだけど、とにかく何かに興味を抱くということがない。感受性はいつだってお留守です。
いや、あった!興味があるものがあった!!
そうだ、私は我が家の犬が大好きだ。もうこれ以上ないほど犬のことを愛していて、しかし我が家の犬は、私の過剰な愛情を受け入れる気はさらさらなくて、いつだって私の愛情を迷惑そうに無視している。それにしても犬って本当に迷惑そうな顔するんだなぁ、マンガみたいだなぁと、いつもそこで笑ってしまう。笑ってないで過剰な愛情を控えなさいな。
興味があるもの、好きなものがあるって素敵なことだ。あとはその対象者に対して、適切な距離感がつかめたら言うことなしなんだけど、適切な距離を保てないから大好きなのでは???と思ってもみたり。うーん、好きって難しい。
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