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読書日記・大きく見える錯覚の中で生きている

1月25日(土)

そろそろカレーの味を中辛にしてもいいと子どもたちに言われたので、中辛を作ろうとしたら「甘口にして」と言われる。仕方がないので甘口を作り続けていたある日、「もう少し辛くても食べられる」と言われたので、じゃあ中辛にしようと思って作ろうとしたら「甘口にして」と言われる。このループが一年ほど続いている。終わりが見えない。いつかしれっとした顔で中辛のカレーを出してやろうかと思うものの、しかしうちの父が中辛のカレーを食べられるようになったのは40代だったし、そういう人間を見ていると中辛にいきなり変えるなんて拷問のように感じやしないだろうか・・と思ったりして、結局、今日のカレーも甘口のわが家です。


相変わらずキムハナさんの『話すことを話す』を読んでいる。

家事もプロジェクトと同じで、自分がやったことは大きく見えるという錯覚が起きるので、自分が少し損をしていると思えるぐらいだと、各自の寄与度がほぼ同じだという確率が高い。

『話すことを話す』より引用

ここを読んで、私も日ごろから「自分がやったことは大きく見える」という錯覚を抱いていることに気がついた。自分のしたことは大きく見えるけど、それに比べて相手のしてくれたことは小さく感じてしまうのよね。相手が少しだけしか動いていないのではなく、自分を過大評価しているから起きるズレを日々感じている。自分だってそんなに大して動いてなんかいないのに、自分だけが頑張っている気がしてた。というか、今でもしている。反省。

自分を客観視して、自分の能力やポジションを把握することで、初めて他の人たちと協力し合えるんだと本に書いてあった。自分を客観視するのは簡単ではないけれど、しかしいつまでも客観視しなければ、自分ばかりが頑張っていると思い込んでしまうし、そうすると相手への不平不満もたまりやすいし、だからケンカが絶えないってことにもなるのでムダな争いは避けたいところ。

「自分が少し損をしている」と思うぐらいで生きてみよう。





1月26日(日)

noteの日記でも、プライベートな内容を書いたものは有料にしている方をちらほら見かける。なるほど、そうすればもっと踏み込んだ内容が書けるのか。しかし私にはそこまで踏み込んだ内容が書けるだろうか、という不安のほうが大きく、未だにこうして「読書日記」をつらつらと書いている。もう少し日記を変化させたい気持ちはあるものの、どうしたものかと思案中。有料かぁ・・うーん。


『向田邦子の本棚』に、向田邦子さんと演出家の鴨下信一さんの対談がある。この中で平安時代の人たちは、病気になるとすぐに死ぬ覚悟をするという話が出てくる。なぜすぐに死ぬ覚悟をするのか、娯楽がなかったことも原因のひとつじゃないかと向田さんがおっしゃっていて、なるほどなと思う。

病気になると、すぐ死ぬ覚悟をするんですよ。早く死んで極楽浄土へ行きたいと願うの。なぜそんなにあきらめがいいかと思ったら、食べものに楽しみがないのと、娯楽がなかったってことでしょうね。

『向田邦子の本棚』より引用

これって例えば、何を食べても美味しいと思えなくなったり、何をしていてもつまらないと思うようになって、死を考えるのと同じだろうか。鬱病とかまさにこんな感じなのでは? 現代には娯楽があふれているようだけど、しかしその娯楽を楽しいと思うことが出来ない精神もあふれているような気がするので気をつけたい。


それにしても向田邦子さんって面白い人だ。思ったことを素直に言える、そんな向田さんの対談を読んでいると面白くてたまらない。あの女優さんはよかったとか、ああいう人は気持ち悪いとか、率直に言えてしまうその正直さに心惹かれるので、もっと向田さんの本に目を通したい。



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