良かれと思っては危険な発想で
先日とある方の音声配信を聞いていたら、
「(ラジオなどの音声配信で)長く続いている番組は、いつも有益な情報を与えてくれているわけじゃないことに気がついた」
という話をされていて、そうなんだ!という発見があった。
番組が長く愛されているのは、有益な情報があるからの場合ももちろんあるけれど、それとは関係なく、パーソナリティーさんの面白さ、会話の面白さなどが際立っている場合が多いとのことで、有益さとはまた違った魅力があるんだと知った。
ラジオを聞く習慣がないのでよくわからないけれど、でもこれラジオ以外でも同じかもしれないと感じた。
たとえばnoteを読むときも、有益なことが書いてあるから読もう!とはあんまりならなくて、ただ文章が好きだったり、書いてある内容自体が面白かったり、そういった人たちの記事を読みながら、ときにハッとしたり、気づきを得ることはあっても、それを有益だと思うことはなんか違うなぁと思うし、またそういった有益さばかり求めることには本当に疲れている。
そんな私なのに、このnoteを書いているとき
「せっかく読んでもらっているのだから、読んでくれた人に何かしら有益な情報を持って帰ってもらいたい」
なんてことをずっと考えながら、今までやってきた気がする。
けれどそれは、私に求められていることではないと思うし、そもそも自分が疲れているはずの有益さを自分が発信しようとしていること、そこに疲れが増す要素があるのでは?と思う。
お得な情報や、有益な情報がもし手元にあるのならば、それらをnoteに書いたら良いと思う。
ただ無理矢理にでも情報を提供しようとするのは、たぶん違う。
提供する側の自分が良かれと思っていることは、提供される側に立ってみると疲れるなぁと思うものもある。
そもそも「良かれと思って」は危険な発想だ。
誰かのためにという発想は、自分をよく見せようとするものである場合が多いもの、それって結局は自分のためじゃないか。
自分が疲れると思っていることを、誰か他の人にしたらダメだよね、やっぱりね。
*
そんな最近の読書は『銀橋』。
宝塚シリーズ第3弾ではあるんだけど、この本単体で読んでも問題なく読めた。
とはいえ、『男役』と『娘役』も読んでいたほうが面白さは増すはず。
『男役』は読んだことがあるので、いまは『娘役』を読んでいるけれど、どれもこれも面白い。
そうはいっても宝塚に興味がない人にとって、この小説が面白いのかは謎。
私はちょうど高校生の頃に宝塚にドハマりした過去があるから、多少なりとも宝塚の知識があった。
そのおかげでこの作品が楽しめていた気はする。
興味がない人にはオススメしにくいけれど、宝塚という独特の世にふれるにはとても良い作品だと思う。
あと、久しぶりに中山可穂さんの文章にふれたのだけど、もうとっても良くて良すぎて、宝塚にもう一度ハマりたい!と思っている自分がいた。
そして中山さんの文章にももっとふれたい!!!と猛烈に思っていて、文章のきらめきというか、とにかく言葉の流れがよどみなくキラキラと輝いている感じがとても好きで、とにかく良かった。
過去に好きだったものは、興味を完全に失ってしまうものもあるけれど、年月を重ねた自分としてまた新たに興味を抱くということも確かにあるから、その新たな自分としてまた好きになったら楽しいだろうなと思った。
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