水玉消防団ヒストリー第17回 カムラ1988年—現在
取材・文◎吉岡洋美
それぞれメンバー個々の仕事や活動が活発になるなか、1988年のライブを最後に活動休止した水玉消防団。ここからの2回は本連載のストーリーテラーで、現在も現役で音楽活動を続ける天鼓、カムラに、それぞれ水玉休止以降から現在までをインタビュー形式にして、連載を締めることにしよう。
まず今回は、水玉休止のあと日本を離れ、現在ロンドン生活が35年となるカムラにその後の音楽活動の軌跡を聞いた。
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水玉活動休止前年の1987年、カムラは天鼓主宰の即興ユニット「UZO-MUZO」に竹田賢一、石渡明廣とともに参加、ヨーロッパツアーを行い、ツアーが終わったその足で在ロンドンのある日本人女性を訪ねる。その女性こそ、カムラにロンドン在住のきっかけを与えた、フランク・チキンズのホーキ・カズコだ。フランク・チキンズは1982年、ホーキとタグチ・カズミの在英日本人女性によってロンドンで結成された音楽デュオで、’83年リリースの「We are ninja」はイギリスで大きな話題となり、異文化をユーモラスに捉えるパフォーマンスで海外ツアーも盛んに行うほど、安定した人気、活動を誇っていた。
●FRANK CHICKENS「We are Ninja」
‘88年渡英、フランク・チキンズのメンバーに
——フランク・チキンズとはもともと交流があったんですか?
カムラ「’85年だったかな、彼女たちが来日したとき、友達の音楽ライターに誘われて水玉のレコードを持って楽屋を訪ねたことがあったのね。カズコさんも以前に水玉のライブを日本で見てくれてたみたいで、『ロンドンに来ることがあったらぜひ遊びに来て』と、住所をもらってたの。で、’87年の11月、UZO-MUZOツアーのあと、私はそのまま一人でロンドンのカズコさん家を訪ねることにしたんですよ。到着したのはかなり朝早くて、でも、カズコさんは『いらっしゃーい! 朝ごはんを一緒に食べましょう!』って喜んで迎えてくれて。で、まずは二人でトーストを焼きながらミルクティーを飲んでたら、いきなり『カムラさん、オーストラリアに行かない? 楽しいよー』と。やぶからぼうに(笑)。『何なの? それ』って聞いたら、正月明けからフランク・チキンズのオーストラリアとニュージーランドのツアーが3ヶ月入ってるのに、一緒にやるはずだった日本人女性が急きょ行けなくなったと。オリジナルメンバーのカズミさんはちょうど抜けたあとで、彼女も無理だと」
——要は、代わりに一緒に行ってくれないかと? 着いて早々に(笑)。
カムラ「そうだよ(笑)。“ヨーロッパツアーはどうだった?”なんて、聞かれることもなく(笑)。それほどカズコさんも切羽詰まってて、藁をもつかむ思いだったんだろうね。だって、年明けからのツアーが11月の段階でそんな状態でキャンセルもできない。そこへ音楽をやってる日本人女性の私がやってきた。飛んで火にいる夏の虫なわけですよ。『曲は大丈夫。私がほとんど歌うし、カムラさんなら覚えられるから。ダンスなんかつまんないことやってるだけだし、もうね、着物着てチャカチャカやってくれればそれだけでいいの。3ヶ月終わったらやめてくれていいから』って泣きつかれたんですよ(笑)。もちろん、『フランク・チキンズの代行メンバー? えええ!?』って、私はなってるわけだけど、でも、その頃、海外に1年ぐらい住んでみたいな、と思ってたときでもあったの。それが全然ツテもなかったところに降って湧いたような話でもあり、“面白いかもしれない”って思ったんだよね。で、ツアーに参加することにして、そのあとロンドンに1年は住む計画で日本と行ったり来たりしながら準備して、’88年7月、本格的に渡英して正式にフランク・チキンズのメンバーになったの」
——じゃあ、オーストラリアのツアーの3ヶ月で「やめる」とはならなかったわけですね。
カムラ「ならなかったのよ。もちろん、フランク・チキンズはこれまで私がやってた音楽と全然違う。カラオケで歌って踊る“芸能”なんだよね。オーストラリアでは同じシアターで毎日3週間、同じショーを決まった段取りで見せるわけ。だから、どちらかと言うと劇団に入った感じなの。自分が音楽的にこれで何かを成し遂げようとは思わないんだけど、ユニットとしてはすごくコンセプチュアルでポリティカル。それは私の好きな要素でもあるんですよ。歌詞やカズコさんの合間のトークも、人種差別や女性差別のことをひねってジョークにしていて、ものすごく痛烈。衣装もモスラのコスチュームだったり、自分からは恥ずかしいほどのものなんだけど、やってることはすごく感覚が鋭くて奇想天外。パンクの持つ攻撃的な要素はないけど、ユーモアで世界をぶった斬る。そういう意味では物凄くパンキッシュでオリジナルで、すごく好きな部分なの。で、フランク・チキンズをやりながら、自分個人の音楽活動はロンドンで別に始めようと思ったのね。と言っても、オーストラリアのときは英語もまだ出来ないし、毎日をこなすのに精一杯で必死だったけど、ツアー自体は初めて体験することが多くて楽しいものだったんですよ」
——日本ではその頃、水玉もバンド活動休止の方向でしたが、カムラさんが新たに始めていた「山猫」に後ろ髪をひかれるところはなかったんですか?
カムラ「実は、ドラムのボーイにもロンドンにおいでよ、って言ってたの。彼さえ来れば二人でギグができるし、って。でも、ボーイは日本に残ってチャンス・オペレーションに入ってヒゴ(ヒロシ)さんのところでバンドを続けるんだよね。結局、私がロンドンに経つ前にジョン(・ゾーン)が当日飛び入りで入った山猫のギグが最後*になったのね。まあ、それからロンドンで生活しはじめた途端、フランク・チキンズでとにかく忙しくなるわけなんだけど」
——確か、イギリスのTVでフランク・チキンズのレギュラー番組(Channel4「Kazuko’s Karaoke Klub」**)が始まってましたよね。
カムラ「あははは。あれはひどかったね。番組自体、フランク・チキンズのショーというより大きな制作プロダクションがからんで作られたものなのよ。日本のカラオケ文化を紹介してゲストに歌わせてトークして、カズコさんが司会、私がアシスタントのMad Geisha役という。当然、私たちもTV番組なんて初めてのこと。コンセプトは悪くないんだけど、私も思い切れてないから、いわゆる芸者のイメージと正反対の“無愛想なゲイシャ”というキャラクターに入り切れてないのよ。正直言って、あの頃はまだ言葉も出来ないから、ものすごくつらかった(笑)」
●「Kazuko’s Karaoke Klub」(1989. Channel4)
——そうか、英語もそんなに出来ないとき、渡英していきなりバラエティ番組のレギュラーだったわけですね。
カムラ「そうよ、ロンドンに来て半年も経ってないんじゃない? 本番でもゲストが何を喋っているかわからないし、私も言いたいことが伝えられないし、何が起きているのかわからない。受け身の状態でしか関われないわけよ。(フランク・)チキンズのショーを作る番組だったらまた違っただろうけど、ディレクター、衣装係諸々のスタッフがいて、全てのシナリオが作られてる。もちろん、テーマのカラオケはカズコさんのアイデアで、番組のなかでも彼女の考えがいくらか反映されていたと思うけど、ほとんどは私たちの手を離れていたんだよね。カズコさんにしてもゲストとウィットに富んだトークを頑張ってるけど、あの時点でロンドンに来て10年ぐらい。それで自分の母国語ではない言語でTVのトークショーをやるなんて大変だし、凄いことなのよ。私のほうはTVに関わらず、この頃は仕事をしていくのに必要な英語が全く出来ないから、いずれにしても自分の主導権がない状態で、とにかく辛かった。カズコさんと二人でショーのネタを考えるのは、すごく面白かったんだけどね。だから、もともと滞在は1年ぐらいとも思ってたし、タイミングを見て日本に帰ろうと思ってたんですよ」
‘89年、セカンド・サマー・オブ・ラヴ、
レイヴ・カルチャーとの出会い
——しかし、日本に帰ることなく現在もロンドン在住に至るわけです。
カムラ「フランク・チキンズでは仕事としてお金を貰いながらも、ショー・ビジネスとしてパフォーマンスを成立させる“役割”に、葛藤しながらも続けていたのね。で、どうしようか決めかねているうちに、チキンズの仕事は次から次へと入ってくるわけ。’89年の8月にはエジンバラ・フェスティバルに出演することにもなって、ところがエジンバラに向かう途中でお腹に激痛が走って病院にかけこんだら緊急手術で入院。退院して9月にはフランク・チキンズのバルセロナ公演をエベレスト登頂に挑むぐらいの感じでこなすんだけど、さすがにそのあとはロンドンで療養してた。で、ちょうど体も回復したぐらいの3ヶ月後、当時、私が一軒家をシェアして住んでた同居人の一人で、現代アートをやってるステファンというドイツ人にレイヴに誘われたのよ。当時、イギリスではアンダーグラウンドでアシッド・ハウスのレイヴパーティーが大勃発していたときで、彼はその8月に、“セカンド・サマー・オブ・ラヴ”の発端にもなった1万人規模のレイヴに行ってショックを受けてブレイン・ウォッシュ状態なわけ。『とにかく凄いことが起きている』と、朝から晩まで私にレイヴの話しかしない。それで『もう、わかった』と。体力にも自信がついた11月頃、ステファンに付き合って一緒にレイヴに行ったの」
●Sunrise raves 88 to 89 BACK TO THE FUTURE & SUNRISE
カムラ「そうしたら、今度は私がブレイン・ウォッシュされた。レイヴって、要はDJがプレイするアシッドハウスで数百人、数千人が同じ空間でひたすら朝まで踊り続けるわけだけど、今まで⾃分がやっていた音楽表現と全く違ってて大カルチャーショック。これまでのバンド活動、支持していた音楽、全てがひっくり返った。パンクも強力なムーヴメントだったけど、レイヴはもっとアブストラクトというか、原始的祝祭のような儀式の持つ力があって、根源的で革命的。本当に一夜でショックを受けた。バンドをやってギグをやります、レコード出します、ポリティカルな歌詞を作って歌うとか、そうしたものと全く成り立ち方が違う。音楽もダンスもレイヴという出来事のひとつの要素にすぎないというか。一体、これは何なんだ? と、そこからレイヴ三昧の日々になるわけですよ。これまで聴いてた音楽も古臭くて全く聴けなくなって、当時のボーイフレンドが車で流したピンク・フロイドの『原始心母』が苦痛で『消して!』って言ったほど。昔、あれだけ好きだったのに。そんなわけで、レイヴに出会って気づいたらロンドンに留ってた」
——そのショックで、カムラさんの音楽表現活動はどうなっていったんでしょう。
カムラ「私はこれまで自己表現として音楽をやってきたけど、レイヴの音楽って、その空間を成立させる大きな建造物のひとつにすぎないんだよね。で、そういう音楽の作り方の引き出しが私にはないわけよ。808でも買ってチコチコ叩いてたら何か出来たのかもしれないけど、ここまでショックを受けた音楽を作る方法論が、あまりにも自分に見つからなかった。だから、音楽はすごく敷居の高いものになってしまって、どうしていいかわからなくなっちゃったんだよね。でも、自己表現という部分では、私はダンスもやってたのでレイヴで踊りながら“ああ、踊りはこういう風に機能するんだ”と、そこには何の矛盾もなかったの。私は日本で舞踏という内面的な踊りと、体を動かすこと自体が面白いジャズダンスのような踊りの両方をやってきてたのね。それまで、この二つの要素が自分の踊りのなかで統合されることはなかったのに、レイヴで踊っていると統合される。内面的でありフィジカル。もう、そこで自己表現の発露が達成されて、音楽をやらなければいけない理由がなくなってしまった」
——ということは、レイヴで踊ることで完結してしまった?
カムラ「そうだと思う。自分を表現しなければ生きていけないというアーティスティックな部分がレイヴで踊ることで成立して、それはあの頃の私にとって大きいことだったんですよ」
●“Raindance”(1990 UK Rave)
●N-Joi Live@Technodrome(1991)
——フランク・チキンズの活動はどうなっていったんですか?
カムラ「1991年にチキンズの次のレコーディングがあるという話になり、レイヴにハマったというのもあるけれど、私は、もうフランク・チキンズをやめる方向で考えていたのね。なのに、やめる人間の歌でレコードを作るのは、後で加入する人たちのことを考えてもおかしい。そう思って、腹を決めたんですよ。レコーディングからは参加しない、やめると。カズコさんには“レコーディングだけは参加して”って頼まれたけど、この先ショーをやらない人間がレコーディングするのは変じゃない? と言っても後で考えたら、私はカズミさんがレコードで歌ってる『We are ninja』諸々をショーで歌ってるんだけど(笑)、そのときはそういう考えだったんだよね。私がチキンズでやれることはここまでかな、と。フランク・チキンズはそれからメンバーが出たり入ったりしながら、カズコさんのプロジェクトのようになって、カズコさんも自分の一人芝居のシナリオを書いて活動しはじめるようになった。それが一番彼女の才能を生かすことだと思うし、私はフランク・チキンズのおかげで自分をかっこよく見せようという下心や自我とどう対峙するか、そのせめぎ合いのいい訓練ができたと思ってる。それは水玉では出来なかったことだったから感謝してるんですよ」
恋人の死、ダンスセラピーから、音楽の回復へ
——フランク・チキンズをやめて、レイヴで音楽は横に置いておくことになり、そこからどのように現在の音楽活動につながっていったんでしょう。
カムラ「実は’94年にロンドンでボーイフレンドが亡くなるという大事件が起きたの。もう、レイヴ、音楽以前の話になってしまって、そこから数年は生きていくだけで必死で、全く何もできなかったんですよ。だから、ボコっと違う次元に置かれたような空白の時期があって、やっとそこからロンドンで一般向けに行われてる「アダルト・エデュケーション」と呼ばれる講座で、ダンスセラピーの勉強を始めたのが’96年。そこでは、レイヴで自分が体験した踊りの在り方について再構築していくような、自分にとっての発展形を見つけられた。その頃から段々と自分を取り戻しはじめて、恋人を亡くしたショックから少しづつ立ち直ってきたの。でも、音楽はまだ完全に途切れていたよね」
——まずは、ダンスから始めたわけですね。
カムラ「そう。最初の一歩はそこからだったね。で、音楽に復帰したのは2001年から。ダンスセラピーを始めて自分も回復しはじめて、音楽をもう一回やってみようかなと思ったんだよね。なんせ、あまりにも音楽から離れていて、レイヴにハマってた最中の’91年以来だから10年のブランクがあるのよ。どこから始めようと思って通い始めたのが、イギリスでAMMというグループを興した即興界の重鎮、エディ・プレヴォ先生の即興ワークショップ。そこから毎週金曜日、ヴォイスで参加して2年ほどがっつり通ったんだよね。常時7〜15人ほどの色々な参加者と即興をやって、最初は生声で始めていたのをマイクとディレイを使ってみたり、ワークショップだから実験がいくらでも出来る。それが面白くて、自分で色々と即興を作り直して勉強しなおした。また、主宰のエディさんの人間性が素晴らしくて、ご本人は重鎮なのに即興未経験者がプラッとやって来ようが、誰でも温かく迎えてくれるエゴがゼロの優しいおじさんって感じで、出会えて良かったと思える人なの。私も即興はそれまで何となく勘みたいにやってたのが、このワークショップに通うことで自分の要素がはっきりしてきたんだよね」
●Eddie Prevost
——じゃあ、即興から、なだらかに音楽に戻っていた、という感じですか。
カムラ「そうそう。本当になだらかに音楽を始められた。そうしていると、エクスペリメンタル音楽をやってるミュージシャンのロブという新しいボーイフレンドも出来て、じゃあ、あと一人サイモン・キングというミュージシャンの友達をメンバーにバンドをやろうかと、「I am a Kamura」というバンドが始まったのが2002年ぐらい。そこでは私は彼らが書く曲に歌詞をつけて歌うことに専念したのね。で、バンドでブリクストンのパブの裏を借りて“Club Integral”という企画ギグを始めるようになるんですよ。自分たちの演奏もしたいし、知り合いのバンドのライブ場所を作れたらいいね、ってシンプルな発想だったんだけど、企画を続けることでエクスペリメンタル系のシーンの人たちと出会うことになって、音楽シーンとまたつながるきっかけにもなった。ロンドンって、即興とエクスペリメンタルのバンドシーンはまた別で、アンダーグラウンドではそれぞれが点在してるだけで、横のつながりがあまり見えないんですよ。だから、企画することで色々なバンドを知ることに役立ったし、自分にとってはネットワークも広がるし、すごく良かったんだよね」
●I am a Kamura 「Tenshi 」Live at Club Integral(2006.3.6)
——今は、Kamura Obscura名義でソロ活動もやってますよね。
カムラ「そう、ソロを始めたのは大笑いのいきさつがあって、ロブと私があるギグの予定の日に、どういうわけか彼が不貞腐れて『こんなことをやっても何もならない』とかブツクサ言い続けてんのよ。それで、リハをやる気もないわけ。私は頭にきて『もう来なくていい! 私一人でやる』って、その日、超久しぶりにソロでヴォイスのインプロをエフェクターを使ってやったのね。そのとき、前から試してみたかったループを使う即興をやってみたわけ。そうしたらそれがすごく面白かったのよ。悪くない。そこで天啓。『私のやりたい音楽はソロでやろう!』。ループでリズムか何かがグルグルまわる土台があれば、それに歌をつければ1曲できる。革命的。まあ、今頃お前はそんなことに気が付くのか、って話なんだけどね(笑)。ロブとやってたときは、彼がロジックで曲を作ってて、見てるだけでも『一人で曲なんてそんな難しいこと』って思ってたの。それが、ここにきてテクノロジーのお陰で自分のなかに大革命が起こって『いやー、面白い! 曲を作るのは』となってるんですよ。それが2014年の58歳のとき」
●Kamura Obscura solo @ Grosvenor 2014
——つまり、58歳で一人で音楽をまたイチから作ることに目覚めたと?
カムラ「そういうことだね。で、エフェクターのループを使ってちょこちょこ音を作り始めて、でもそれをどこかに入れ直さないと音源にはならないわけじゃない。じゃあ、せっかくMacにガレージバンドってアプリがタダで付いてるんだから、と、ガレバンを本格的に使い始めた。それが2016年ぐらい。知り合いの音楽ド素人の女性アーティストが『ガレバン、簡単よ』って、使ってることを知って、試してみたら“やれんじゃん”みたいな(笑)」——ということは、初ソロの2年後にガレージバンドを使い始めたのが……。
カムラ「60歳のとき。だから還暦からスタートなの、私。ちょうどコロナのときって家にいるしかなかったじゃん? で、物凄く集中的にガレバンを使って曲作りして、あれやこれや試してソロアルバムを一人で作ったの。試してみたら簡単で、だって、小学生でも扱えるアプリでコードも入ってるんだから。私は長くテクノロジー恐怖症があったんだけど、やってみたらテクノロジーは恐るに足らずで、年齢を重ねたからこそ、楽器もロクに弾けない私のようなレベルのミュージシャンにはいい友達になったのよ」
——可能性がここにきて新たに一気に広がったわけですね。凄いな。
カムラ「そう、曲の出来の良し悪しはともあれ、一気に広がった。68歳のこの歳にもなって気がつくのも何だと思うけど(笑)。この間、デヴィッド・ボウイの生前のドキュメンタリーを見ていて、あ、これは大事だな、と思う発言があったのね。彼のキャリアも後半の頃のインタビューで、ボウイは絵を描きながら、こう言うの。『自分が今作っているものが、かつての自分がやっていたことよりいいものになっているか、僕にはわからない。でも、自分自身が今やっていることを楽しく思えて、クリエイトしていることをエキサイティングに感じるなら、すごくラッキーなことだと思う』と。今の自分を許す、ってのも変な言い方だけど、人と比べなくてもいいのなら、過去の自分と比べなくてもいいわけじゃない。少なくとも今、私は音楽を能動的にやっているのが楽しくて、アイデアもいっぱいある。その延長で、またバンドで曲作りもやりたいしね」
●Kamura Obscura at Intox Extravaganza 9 March 2023
●Kamura Obscura duo at Club Integral March 2022
何か始めるのに早いも遅いもない
——改めてですが、まさにいつも一緒に皆で曲作りをしたバンド、水玉消防団はカムラさんにとってどんな時期だったでしょう?
カムラ「あの頃はわからなかったけど、振り返ると、自分の人生でやっていきたいことを見つけられたすごく大事な時期だったんだよね。自分が何者なのか、何のために存在しているのか、もがいているような20代のときに音楽という形が降って湧いてきた。その場所になった水玉消防団は、私にとって運命であり、奇跡だと思ってる。当時は、自分が面白いと思ってることに何の自信もないわけですよ。自分に音楽を作る才能のギフトがあるなんて思ってないから。それがやってみたら『水玉って面白いね』って言ってもらえた。それは自分のクリエイティビティに対して肯定感、許可を与えられた経験で、あれがなかったら私の大切な人生の半分は存在していなかったと思う。自分がやりたいから、やっていいじゃん、って、それを誰も止めない仲間がいて、メンバー5人のエネルギーが奇跡的なブレンドになったんだろうね。すごく感謝してる」
——最後に、自分より若い世代にメッセージを。
カムラ「水玉消防団を始めたときも『おばさん』って言われたわけだけど(笑)、いつになっても“遅すぎる”ってことは存在しないの。若い人は、“今見つけなきゃいけない”って思って、このチャンスを逃したら、という焦りもあるだろうし、先が見えないから不安もいっぱいある。それは仕方ないの。でも、少しでも信じられるものが何かあって、何だかこだわってしまうものがあるなら、それをちょっと大事にしてみる。それを大事にしておけば、そこから次の何かが必ずくる。それが何かはわからないけど、私みたいに色々なことがグダグダ起きて一貫性がないように見えても、振り返ったら不思議なことに、それぞれの筋は通ってる。不安だろうけど、意外と大丈夫。物事に遅すぎることも早すぎることもないんだから」
*=山猫は1993年にカムラが日本に1ヶ月戻ったタイミングでカムラ(vo)、ボーイ(d)、イデ(b)、ヒゴヒロシ(g)、ラピス(g)のメンバーで再結成し、ライブを行なっている。
**=「Kazuko’s Karaoke Klub」は、イギリスChannnel4で、1988年末にパイロット版を収録し、翌年1990年の5〜7月に放送。毎回2〜3名のゲストがカズコとトークし、希望の楽曲をカラオケで歌う。Mad Geisha役のカムラはデュエットの相手も務めた。ゲストはビリー・ブラッグ、トム・ロビンソンから、今となっては悪名高きあのジミー・サヴィルまで、ロック・ミュージシャンから国民的タレント、コメディアンなどが名を連ねた。
●カムラアツコ 80年代、日本初の女性パンクバンド「水玉消防団」で、ボーカリスト、ベーシストとして音楽活動開始。日本パンクシーンの一翼を担う。同時に天鼓との即興ボーカル・デュオ「ハネムーンズ」にて、ニューヨーク、モントリオール、ヨーロッパで公演、ジョン・ゾーンはじめニューヨーク・インプロバイザー等と共演。その後、英国に渡りポップグループ「フランクチキンズ」でホーキ・カズコとペアを組む。オーストラリアを始め、ニュージーランド、アメリカ、カナダ、ヨーロッパ、ソビエトなどツアー。90年代は、ロンドンで始まったレイブシーンでダンスミュージックの洗礼を受ける。2000年以降、「I am a Kamura」、「Setsubun bean unit」でフォーク、エスニック、ジャズ音楽の領域に挑戦。現在の自身のプロジェクト「Kamura Obscura」では、Melt, Socrates' Garden、Speleologyのアルバムをリリース。エレクトロニクス、サウンドスケープ、即興の渾然一体となったさらに実験的な新作「4AM Diary」を2021年末にリリース。同年秋、イギリスのポストパンクバンドNightingalesの満席完売全国ツアーをサポートする。2019年にはバーミンガムの映画祭Flat Pack Film Festival、2022年10月にはポルトガル・セトバルの映画祭Cinema Charlot, in Setubal, Portugal にて、日本の前衛映画の名作「狂った一頁」の弁士を務めた。
Kamura Obscura
カムラの現プロジェクト「Kamura Obscura」の公式サイト。現在の活動情報、水玉消防団を含むディスコグラフィー、動画など。
●水玉消防団 70年代末結成された女性5人によるロックバンド。1981年にクラウド・ファンディングでリリースした自主制作盤『乙女の祈りはダッダッダ!』は、発売数ヶ月で2千枚を売り上げ、東京ロッカーズをはじめとするDIYパンクシーンの一翼となリ、都内のライブハウスを中心に反原発や女の祭りなどの各地のフェスティバル、大学祭、九州から北海道までのツアー、京大西部講堂や内田裕也年末オールナイトなど多数ライブ出演する。80年代には、リザード、じゃがたら、スターリンなどや、女性バンドのゼルダ、ノンバンドなどとの共演も多く、85年にはセカンドアルバム『満天に赤い花びら』をフレッド・フリスとの共同プロデュースで制作。両アルバムは共に自身のレーベル筋肉美女より発売され、91年に2枚組のCDに。天鼓はNYの即興シーンに触発され、カムラとヴォイスデュオ「ハネムーンズ」結成。水玉の活動と並行して、主に即興が中心のライブ活動を展開。82年には竹田賢一と共同プロデュースによるアルバム『笑う神話』を発表。NYインプロバイザーとの共演も多く、ヨーロッパツアーなども行う。水玉消防団は89年までオリジナルメンバーで活動を続け、その後、カムラはロンドンで、天鼓はヨーロッパのフェスやNY、東京でバンドやユニット、ソロ活動などを続ける。
◆天鼓 ライブ情報
⚫︎2023年12月22日(金)@千駄木Bar Isshee
出演 天鼓/田畑満
open19:30/ start 20:00
投げ銭制(別途チャージ500円+ドリンクオーダー)
・予約受付メールアドレス
:barisshee@keh.biglobe.ne.jp
タイトルを「12/22予約」とし、氏名(フルネーム)と人数(最大2名)と電話番号を明記。
⚫︎2023年12月24日(日)@POLARIS
「ブラッククリスマス2023」
出演 天鼓/灰野敬二/ドラびでお/山川冬樹
open 17:30/start18:00
ADV:4,500円/DOOR:5,000円(+1ドリンクオーダー withミニギフト)
・前売りは下のお店のサイトで発売中
⚫︎2024年1月9日(火)@神保町《試聴室》
出演 天鼓(Voice)/ レオナ(Tap Dance,全身打楽器)/
MIYA(Flute,能管,Modular)/ 一噌幸弘(能管,能楽,田楽笛,篠笛,リコーダー,つの笛)
open 19:00/start19:30
予約:3500円/当日:3800円/under22: 2000円 (1ドリンク, スナック込)
東京都千代田区西神田3-8-5 ビル西神田1階
◆水玉消防団ヒストリー バックナンバー