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「ありがとう」も「ごめんなさい」もいらない世界とは?|13924文字

はじめに

神田の古本祭りで彼女が買ってきてくれた一冊の本。
それは「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民」
という
奥野克己さんが書いたプナンの生活と哲学を描いたものだった。
この本を読み進めるうちに、僕の中で日常の当たり前が揺さぶられる感覚を覚えた。
この本は、ボルネオ島に暮らすプナンという狩猟採集民の生活や哲学が内容に書いてある。
タイトルにある「ありがとう」も「ごめんなさい」
これらを不要とする文化観があるのか。
そこでまず、僕は衝撃を受けた。
現代においての思いやりとは何か。とその時考えた。
それは、「ありがとう」や「ごめんなさい」という言葉を放つことによって”相手”を心地よき思いをさせたり、”行為”によって人が喜ぶということで人間関係をより滑らかなもの視していくことこそが、”思いやり”なのかなと感じていた。
これらはどの世代であれともどの環境下でも繰り返されてきたことだと思う。
言葉がなければ何も伝わらないと信じてきた僕にとって、感謝や謝罪を言葉で表現しない文化は、無意識に抱いていた常識を揺さぶった。
それに対して、プナンは感謝や謝罪を言葉で伝える必要がないほど、分かち合いや信頼が共同体の基盤に組み込まれている。
この根本的な価値観の違いが、僕の中で大きな問いをやってきた。
「僕らが当たり前としている”感謝”や”謝罪”の文化は、本当に普遍的なもの・ポピュラーなものなのか?」と。

たとえば。リーダーシップに関して。プナンには貧富の格差がありません。
貧富の格差がないことには誰もが持っている場合と誰もが持ってない場合があって、プナンは「have not」、持たない人です。

何も持たず、分け与えるとビッグマンになる。

これは、僕らが持つ「所有」の概念を根本から覆す視点だなと感じた。
最新のスマートフォンを手に入れたときの満足感、高級な服やブランド品で感じる優越感、マイホームや車を所有することで得られる安定感やステータスを「豊かさ」として捉える。
一方で、それらを失ったときの不便さや不安、流行遅れによる劣等感、あるいは維持費の重圧や人間関係の喪失に伴う孤独感といった「欠乏」として捉える。
要に、僕らは物を「所有」することで豊かさを感じ、逆に「所有」を失うことで欠乏を感じながら生活している。
しかし、プナンの世界では、物はそもそも個人の所有物ではなく、必要に応じて共有されるものだった。
「贈り物」としての物質は、誰かの所有物として固定されるのではなく、流動的な存在として共同体の中を行き交う。
現代でいうカーシェアリングが近似値だと思う。
それは、車が持ち主の手を離れ、必要とする人の元を渡り歩くこと。
感謝や謝罪が不要な理由は、この流動性の中にあると感じる。
読書を進めるにつれ、僕の頭の中には「現代社会」との対比が浮かび上がった。
僕らはなぜこれほど所有に執着しているのか。
「お金が欲しい。あのものは欲しい。あの子は欲しい。」
そして、なぜその執着が人間関係の摩擦を生むのだろうか。と。

p119
「或る程度までなら、所有は人間を独立的にし、いっそう自由にする。もう一段進むと一所有が主人になって、所有者が奴隷になる。彼は かかる奴隷として、所有のための己れの時間を、己れの省察を犠牲にしなければならない。
そして以後は、自分が交際に拘束され、場所に釘づけにされ、国家に同化されてしまったように感じる、それも、すべてはおそらく彼のいちばん内面的な、またいちばん本質的な欲求に反して。」
フリードリヒ・ニーチェ『人間的、あまりに人間的』

現代は、家、車、服、スマートフォンなどの日常的な所有物はもちろん、知的財産やデータといった無形のものなどの物質的な所有に縛られ、それを巡るトラブルに追われる。
一方で、プナンの人々は所有を最小化することで自由を手にしている。
また、プナンの「教育」という側面でも考えさせられるものがある。

p179
プナンのハンターの現在の中心世代は、四十歳代である。私は、若者たちが森の中での生業である狩猟に興味を示さないこと、若者が狩猟の技術と知識を今習得しておかないと、今後、狩猟を中心とした暮らしが成り立たなくなることに危惧を覚えていることを仄めかしながら、現役のハンターたちの反応を探ってみたことがある。驚いたことに、誰一人として、若者たちの「狩猟離れ」を気にかけている様子はなかった。
「たいしたことはない(jeng i60)」と言い放った男がいた。「(若者は)おそらく(動物が)怖いのだろう(mukin medail」という、解釈に困る答が返ってきたこともあった。このエピソードは、プナンが将来に向けて向上心を持って、何かをコツコツとやりながら学ぶことがない人たちだということの一端を顕著に示しているように思われる。プナンは将来に備えるのではなく、その都度の状況に合わせて、なんとかなるだろうと考える傾向にある。
翻って述べれば、プナンは、学校での勉強をつうじて、個人の能力や知識を磨き上げることに期待を寄せたり、それが重要なことであると捉えたりするような人たちではない。

現代日本では、学校教育によってその人自身の固有の価値観、思考、行動パターン、感情的な反応や知識の基盤とされるが、プナンにおいて「学び」は「日常生活」に溶け込んでいる。
彼らは学校に通う必要がなく、生活の中で必要な知恵を自然と身につけていく。
その意味で、奥野さんは「プナンにとって学校とは言っても行かなくてもよい場所」と記載していた。
この実践的な学びは、僕らが体験していた「詰め込み教育」が抱える問題を想起させた。
森の中で遊び、親を手伝いながら得た知恵は、単なる情報・知識ではなく「生ける体系」として彼らの中に根付いている。
「ありがとう」も「ごめんなさい」もいらないという言葉には、初めは違和感しかなかった。
ただ、この本に触れるにつれ、それは単に「言葉がない」というだけではないことがわかってきた。
それは、僕らが思い描く「自己完結」や「個人主義」とは異なる形の「自己充足」的な在り方であり、他者とのつながりの中で自己を見出す生き方だった。
僕らの生活は、まるで「自己責任」という言葉に縛られているかのように、他者との関係を切り離し、孤独の中で生きることを余儀なくされることが多い。
しかし、プナンの「共同体的」な在り方は、それとは真逆の道を指し示していると感じる。
「ありがとう」という感謝や「ごめんなさい」という謝罪。
これらの「表現」を必要とせずとも成り立つ彼らの関係性は、「信頼」と「共有」を基盤とした深い人間関係の在り方を示しているのでは、と。
ホッブズが提起した「万人の万人に対する闘争」という概念がある。
ホッブズが描いた自然状態は、各個人が自己保存のために孤立し、争いを避けるために強力な統治権力が必要とされる状況だった。
現代社会において、統治権力が機能不全になり、信頼が損失していくと、孤立した個人が「自力救済」に走るという問題が浮かび上がる。
統一教会を巡る事例のように、歴史的に統治権力と特定の勢力が深く結びついていた場合、被害者の訴えは応答を得られず、自力救済に頼らざるを得ない。
このとき、自力救済はしばしば「おぞましきもの」となり、さらなる分断を生む。
「統治権力に依存せずとも成立している」観点から
プナンの社会は、ホッブズ的な問題を回避しているように見える。
彼らは、「分断」や「孤立」の反対側にある。
「所有」を最小化し、「信頼」を基盤とすることで、個人が自力救済に走る必要がない社会を築いている。
この在り方は、現代社会が抱える「孤立」の問題に対しても助け船になるかもしれない。
そう思わせてくれた。
ホッブズの言う「自然状態」が「恐怖」と「争い」に満ちているとすれば、プナンの共同体はその逆である。
「争い」や「恐怖」ではなく、「共有(シェアリング)」と「信頼」によって成り立つ彼らは、僕らが目指すべき社会の一つの指標となるであろう。

現代社会が見失っている、あるいは置き去りにしてきた可能性。
それは、人間が自然や他者とどのように関わるべきか、そして所有や感情表現が人間関係の中で果たす役割について、再考を促すものである。
プナンの生き方は、現代社会の常識に挑戦状を叩きつけるような存在だなと。
情報が跋扈する現在においてプナン的な認識、実践をするかは新たな視点で世界を見つめ直すきっかけにもなると感じる。

プナンの生活と哲学

東南アジアに位置するマレーシアのボルネオ島に暮らす狩猟採集民、プナン。
その生活は、プナンの生活の中心にあるのは、「狩猟」と「採集」
彼らは動物(本ではヒゲイノシシやリーフモンキー)を狩り、森の中で木の実、果実や野草を集めることで生計を立てているが、その生活は驚くほどシンプルだった。
「所有」する物は最小限にとどめ、移動の「自由」を損なわないようにしている。
彼らが暮らす簡易的な小屋は、移動のたびに解体され、森の素材で再構築される。
これにより、彼らの生活は常に自然と「一体化」しているからこそ、環境に負担をかけることがない。
現代社会のような「所有」に伴う執着や不安が彼らにはない。
プナンは所有を最小限に抑えることで、物に縛られることなく、自由な暮らしを実現している。
この内容を再び引用したくなった。

「或る程度までなら、所有は人間を独立的にし、いっそう自由にする。もう一段進むと一所有が主人になって、所有者が奴隷になる。彼は かかる奴隷として、所有のための己れの時間を、己れの省察を犠牲にしなければならない。
そして以後は、自分が交際に拘束され、場所に釘づけにされ、国家に同化されてしまったように感じる、それも、すべてはおそらく彼のいちばん内面的な、またいちばん本質的な欲求に反して。」
フリードリヒ・ニーチェ『人間的、あまりに人間的』

学びが日常に統合されている

現在の日本的な社会においての学びは「学校」や「特定の場」でまなべれるものと認識されている。
しかし、プナンの「学び」は日常生活そのものに溶け込んでいる。
あるプナンの子どものエピソードが印象的だった。

p171
私の知るケースでは、クニャー人の生徒からのいじめを受けたプナンの子ども(小学校二年生)が、学校に行かなくなったことがあった。親はそのことを苦にしたり、悩んだりすることはなかった。いじめられていた当の子どもは学校に行きたくないという理由で、学校をやめた。
その子はそれから、親の行動につねに同行するようになった。森に行って遊び、冒険し、時には親の手伝いをした。彼は森の中で、自分の経験に関して連関のある、生ける体系が自身のうちに成長するのを感じたはずである。

子どもたちは親や大人の行動を観察しながら、狩猟や採集の技術を自然と身につけていく。
学びは座学ではなく、森の中での実践を通じて得られる生きた知識として語られる。
これを考えると、現代における閉ざされた学びではなく、開かれた学びになる。
日本教育には訓練的な集団教育の方針が多々見える。
自小学生の時、全校集会での初めにある整列(前ならえ)は、僕にとって特に苦手な活動の一つであった。
クラス全員が整列し、先生の号令に従って「前ならえ」をしながら間隔を調整する。
その動作一つひとつが正確であることが求められ、先生は「列が歪んでいる」「間隔が狭い」と厳しく指摘をしてくる。
僕はこの整列が苦手だった。
どうしても自分の動作に自信が持てず、前後の人の手の高さや腕の伸ばし方を気にしすぎて、結果的に動きが遅れてしまうことがよくあった。
先生から「遅いぞ、もっと素早く!」と叱られるたびに、身体が硬直し、余計にぎこちない動きになったり、めんどくさいな、と感じていた。
自分だけがリズムを崩しているような感覚に陥り、周りに迷惑をかけていると感じることが、さらにプレッシャーを大きくしていた。
この時間は、ただの準備体操や整列の一部ではなかった。
全員が一糸乱れずに動作を揃えることが暗黙の目標とされ、それができない僕は集団として共存ができない。故に仲良くできない。という劣等感を感じていた。
これはまさに奥野氏の引用したフーコーが指摘したの具体例だと言える。

『監獄の誕生』の中で、監獄や病院と並んで、学校が近代的な権力の典型であることを指摘した。学校の建設や教師のまなざし、試験制度などの、生徒を規格化するための「規律=訓練」のテクノロジーの中で大衆教育が出現したと捉えたのである。

身体の動きをロボットごとく固く動かし、全員が同じ動作を行うことで「集団としての秩序」を体得させようとしているのである。
しかし、僕はその「集団の一部である」という感覚に馴染めなかった。
自分の動きが遅れていることや、列の中で浮いているように感じることが耐え難く、整列が終わるたびに心の中でため息をついていた。
こうした経験は、個人の多様性や苦手さよりも、「集団」の規範に従うことが優先される教育の一端を垣間見る機会だったのかもしれない。
そんなどうでもよさそうでどうでもよさそうでないことを思い出した。

「ありがとう」「ごめんなさい」を必要としない文化

「感謝」や「謝罪」を言葉で表現する必要がないこと。
これは、単に言葉を省略しているという意味ではない。
プナンのコミュニティでは、「モノ」や「コト」を分かち合うことが当たり前のことであり、それ自体が文化的な前提下となっているため、感謝や謝罪の言葉が必要とされていない。
分かち合いの文化は、信頼を基盤として成り立っている。
狩猟で得た肉はすべてのメンバーに分けられ、特定の個人が独占することはない。この行為は、自然からの恵みをみんなで共有することで森の秩序を守る役割も果たしている。
「反省しない」というプナンの姿勢も繋がりがある。
それは、彼らの時間感覚と共同体の構造に根ざしたものだろう。
プナンの文化では、あらゆる出来事が永遠に繰り返される「円環的な時間」の中で生活が営まれている。
「朝日が昇り、沈み、また昇る、その繰り返しの中で我々は日々を生きている」 という自然現象。
現代においては、「ラッシュアワー、毎朝同じ時間に混雑する電車やバス、また夕方には帰路につく人々の流れ。」
この当たり前に続く時間感覚の流れの中で、過去や未来よりも「今」を重視する価値観を育み、そこに「反省しない」という生き方が自然と根付いている。
彼らにとって過去を振り返って悔やむことや、未来を憂いて備えることは、それほど重要ではない。
それよりも、「今この瞬間に最適な行動を選び取ること」が、生活の基盤となっている。
この「今を生きる」哲学は、感謝や謝罪の言葉が必要ではない理由とも繋がっている。
ここで興味深いのは、「反省」「謝罪」という行為が、私たちにとっては過去の行動に基づいている。
プナンの文化では「今」の行動でそのとき必要なものに修正していくという点だ。

なので「反省する」という言葉はない。プナンは、後悔はたまにするが、反省は恐らくしない。
プナンは状況主義だ。くよくよと後悔したり、それを反省へと段階を上げても、何も始まらないことをよく知っている。


たとえば、もし何かが失敗したとしても、それを悔やんだり反省して次に活かそうとするのではなく、必要に応じてその場で修正し、他者と協力して問題を解決していく。
これが彼らにとって「生きるための技法」であり、言葉を必要としない感謝や謝罪の形でもある。
また、「反省しない」という態度は、共同体内での個人の行動が、すでに共有されている価値観や信頼に支えられているために可能となる。
言い換えれば、プナンの文化では、行動そのものが共同体に組み込まれており、個人が他者からの評価や承認を得るために言葉で表現する必要がないのだ。
この点で、「反省しない」という姿勢と、「感謝」や「謝罪」を言葉で伝えない文化は、同じ土壌から生まれたものだと言える。

「反省しない」ことと「感謝」や「謝罪」を言葉にしないこと。
プナンの文化においては、単なる否定ではなく、共同体の中で他者と繋がり、分かち合いながら生きることの積極的な選択肢なのである。

自己完結する暮らし

暮らしの自己完結性。
彼らは何かを達成するために生きるのではなく、ただその瞬間を充足させることを目指している。未来のために準備をすることはせず、その日必要な分だけを得て生活する。
では、彼らの共同体の中で自己がどのように位置づけられているかという部分もどうなのかというのも気になった。
プナンでは、個人は他者との関係の中で存在し、完全に独立した主体としてではなく、共同体の一部として捉えられている。
個人主義の社会では、「ありがとう」や「ごめんなさい」を言葉にすることで自己の立場を明確にする必要があるが、プナンの共同体ではその必要がない。
言葉を必要とせずとも、行為そのものが信頼を築く手段となっているからだ。
つまり個人としての責任はないので反省することもなく共同体としての主客が湧けられていないのではと思った。

現代社会との対比

日本では学校を辞めることは、しばしば社会的不適応の烙印を押される原因となる。不登校や引きこもりの問題は、個人の責任とされることがよくある。
実際には教育制度自体が抱える構造的な課題が大きいも感じる。
プナンのように、日常と学びを分離しない在り方は、私たちの教育制度を見直すヒントを与えてくれる。
現代日本では、個人主義が強調される一方で、孤立の問題が深刻化している。
最近だと、孤独死の約八割が「男性」だとされている。
特に都市部では、「職場」「隣人」「家庭」でのつながりが希薄になり、多くの人が孤独を感じながら生活している。
この孤立は、個人主義が過剰に進んだ結果と言えます。
対照的に、プナンの社会では共同体が生活の中心にある。
彼らは個人の幸福よりも共同体全体の調和を重視し、感謝や謝罪を言葉にしなくても、分かち合いや信頼が基盤となっている。
狩猟で得た獲物は全員で分け合うこと、誰かが特定の成果を独占することはないこと。
この二つが当たり前の価値観にあるからです。
このような共同体的な生き方は、個人主義社会が抱える「孤独死」の問題の解決に導いてくれるとも思いました。
さらに、彼らの信頼関係は、「言葉」ではなく「行動」によって築かれる。
感謝や謝罪といった形式的な表現は必要とされず、分かち合いそのものが信頼の証となる。
この姿勢は、現代社会でしばしば見られる「形だけの感謝」に対するひとつの改善方法になるのではとも思った。

森の哲学を現代に応用する

必要な分だけ得る生活
プナンの生活は、物質的な所有を最小限に抑え、その場で必要なものを得ることで成り立っている。
この生き方は、近年注目されているミニマリズム深く共鳴する。
たとえば、プナンの人々は狩猟や採集で得たものを蓄えず、共同体で分け合うことで生活を成り立たせている。
これにより、物を所有することによる束縛から解放され、自由で柔軟な暮らしを実現している。
一方で、現代社会では「所有」が幸福の指標とされることが多い。
スマートフォンやファッションアイテム、さらには住宅や車まで、僕らは物を持つことで自分の価値を証明しようとする傾向がある。
しかし、この「所有」が時に自由を奪い、負担となることも少なくない。
ミニマリズムはこの矛盾を解消する一つのアプローチだと思う。
僕らが本当に必要とするものに焦点を当て、不要な物を減らすことで、精神的な余裕や自由を手に入れる。
この姿勢は、プナンの「必要な分だけ得る」哲学に通底している。
学びを日常生活と結びつける
プナンの子どもたちは、森の中で親や共同体の人々とともに生活しながら、必要な知識やスキルを自然に身につけていく。
これらの学びは、学校のように座学として切り離されたものではなく、生活そのものの一部として存在している。
「学びは日常実践とともある。」
この点について、プナンの哲学は「学びと実践の分離」を基本とする現代の教育制度へのアンチテーゼとなっている。
学校教育が「学び」を「実生活」から切り離してしまう傾向が現在ある。
社会的コンテキストである「学歴」を気にして、知識を「試験」のためだけに蓄積し、社会に出たときに実際に役立つスキルが不足している人は実に多い。
以前に、同級生で川魚の食べ方が分からないなどいう人も実際にいた。
趣味やプロジェクトを通じて、自分の興味や課題に基づいた「生きた学び」を取り入れることは、「プナン的な学び」の再現かもしれない
例えば、料理を通じて食材の特性を学び、環境に優しい選択をすること。ガーデニングを始めて自然の循環を理解すること。これらすべて、学びを日常に結びつける一例であり、プナンの哲学を現代に応用する実践的な手段だろうと思う。

永遠回帰としての日々を楽しむ
ニーチェの哲学におけるこの概念は、人生の全ての瞬間を肯定し、それが永遠に繰り返されるとしても、それを受け入れる生き方を目指すものだと解釈されている。
「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民」に描かれたプナンの生活は、この永劫回帰の哲学を地で行く生き方のように感じられた。
前述内容を繰り返すようだが、プナンの暮らしは、過去を悔やまず未来を憂うこともなく、目の前の現実に根ざしている。
彼らは狩猟や採集で得たものを蓄えず、その場で必要な分だけ得るという生活を送っている。
余剰をため込むことなく、自然の恵みを共同体で共有するというこの姿勢は、私たちの消費社会とは対極にある。
彼らは、必要以上に得ることが自由を損なうことを直感的に知っているかのように、「今」に集中して生きる。
過去の成果に縛られることも、未来への不安に駆られることもない生活は、まさに永劫回帰の中で日々を楽しむ姿勢を体現している。
プナンの狩猟の一場面を想像してみる。
ある男が森の中で鹿を仕留めると、その肉はその男のものではなく、村全体のものになる。分配の基準は厳密ではなく、自然に決まる。
これには、誰もが自然からの恵みを等しく享受し、持続的な相互作用性を保つという哲学が潜在的にある。
鹿は「贈り物」として認識され、それを皆で享受することで、感謝の心は行動そのものに現れる。
言葉ではなく、行動を通じて感情を示すこの文化観は、「感謝するために生きる」思想としても受け入れることができる。
この「感謝を行動で示す」という姿勢は、永劫回帰の日々を楽しむキーになのだろう。
僕らは、日々の中で「感謝」や「謝罪」を言葉で表現することに慣れているが、プナンのように「行動」で示し、瞬間に集中すること、それが新たな充実感を得られるのではないだろうか。
親しい友人との時間を楽しむ際に、その喜びを「ありがとう」の一言で済ませるのではなく、共に何かを分かち合うことで喜びを深めることができるかもしれない。
「直線的な時間」ではなく、「円環的な時間」に基づいた生活。
僕らの社会では、未来に向かって進むことが良いとされ、過去の経験を反省して成長の糧にすることが奨励される。
しかし、プナンは過去を振り返ることにあまり関心を持たず、未来への計画も最低限にとどめている。
それが可能なのは、彼らが自然のリズムに寄り添い、その日その日を「永遠に繰り返される現在」として捉えている。
果実の実る季節や動物の行動パターンに合わせて生活するプナンは、その繰り返しの中に新たな発見や喜びを見出している。

僕が生まれ育った諏訪の地でも、この「円環的な時間」を感じる機会があった。
毎年春になると学校の近くや公園、山にある西山公園、立石公園なども桜が咲き、人々は花見を楽しむ。
この光景は何年も変わらないが、その中に異なる美しさがある。
昨年と同じようでありながら、今年の風景は昨年のそれとは違う。
これもまた、永劫回帰の中で新たな意味を見つける「行為」だと言える。
現代のZ世代において、この考え方をどれくらい理解できるものなのか。
日常のルーティンはどんな感じなのだろうかと思う。
毎朝の通勤や通学、家事や仕事の中で、繰り返される行動に意識を向け、その中で何か新しい楽しみを見出す。
あるいは、友人や家族と何度も繰り返してきた会話や食事の時間に、これまでと異なる「感謝」の気持ちを込める。
こうした行動は、永劫回帰の中で日々を楽しむ姿勢を養う手助けになるだろう。
プナンの生活を通じて学ぶのは、「同じ日が繰り返される」ことへの受容と、それを楽しむための心の持ちようだ。
過去や未来に縛られず、「今」に集中する力を思い出させてくれるプナンの哲学に触れ、僕たちもまた、繰り返しの中に潜む新たな発見と喜びを見つけることで、より豊かな日常を築けるとも感じた。
感謝・・・言葉ではなく、行動を通じて感情を示すもの

視点の交錯から関係性の多層性へ

人間、動物、鳥の間で交わる視点の違いは、自然の一部としての生態系の理解にとどまらず、互いに絡み合う関係性がいくつもの層で構築されていることを浮き彫りにしている。
この本に書かれているプナンの狩猟活動で見られる、リーフモンキー鳥、リーフモンキー、そして狩猟者である人間の間の関係性をこの本において例示されている。
狩猟関係において、単に捕食−被捕食の関係として語られるべきものではなく、「視点の多様性が交錯する場」として理解されるべきものという考え方がある。

ヴィヴェイロス・デ・カストロが提唱する「パースペクティヴィズム」や動的な構造観の概念が深く関わってくる。
プナンの狩猟におけるリーフモンキー鳥の囀りに関しての内容は、すごくおもしろかった。
リーフモンキー鳥が囀ると、その音を聞いたリーフモンキーは危険を察知して逃げ出す。
一方で、人間はこの囀りによって狩猟に失敗することがある。

この現象を深く掘り下げると、鳥の行動習性には、
単なる自然の一部として受動的に捉えられるべきではなく、独自の視点と目的を持つ主体的な行動と見るべきであるという認識に結論づく。
ヴィヴェイロス・デ・カストロの「パースペクティヴィズム」の枠組みでは、
動物や精霊はそれぞれが自分たちを「人間」として捉えている。
彼らの世界では自分たちが主体であり、その視点から他の存在を見ているということ。
つまり、すべての存在が世界を「どう見るか」ではなく、「どう生きているか」という点で独自の価値を持つという考え方です。

この鳥の囀りは、リーフモンキー鳥が自らの生存戦略の一環として起きるものであり、単にリーフモンキーを救おうとする行為ではない。
一方で、狩猟者である人間から見ると、この囀りは狩猟においての獲物を仕留めるを妨げる要因として捉えることができる。
この視点の違いによって、森においての関係性の多層性が生まれている・
ヴィヴェイロス・デ・カストロが提唱する「多自然主義」の考え方は、この視点の多様性を理解する上で重要なヒントを与えてくれる。
元々の「単一の自然主義」では、すべての主体が共有する客観的な自然が存在するとされ、それをどれだけ正確に認識できるかが評価基準とされる。
しかし、多自然主義の枠組みでは、自然は単一の存在ではなく、各主体がそれぞれの視点から認識する複数の自然があるとされる。
この考え方をリーフモンキー鳥の事例に当てはめると、鳥、人間、リーフモンキーそれぞれが異なる自然を見ており、それらが交差することで関係性の多層性が形成される。
具体的にプナンの狩猟においてリーフモンキー鳥の囀りは、リーフモンキーにとっては「危険を知らせる警告」、狩猟者にとっては「狩りを妨げる障害」として作用している。

鳥にとっての自然は、捕食者である人間を回避し、自らの生存を確保するための舞台であります。
一方で、人間にとっての自然は、狩猟対象を得るための資源としての舞台であり、リーフモンキーにとっては捕食者と鳥の存在を含む生存環境としての舞台でもあります。
この多自然主義的な視点から見ると、自然とは一つの客観的なものではなく、主体ごとに異なる視点と関係性を通じて形成される「動的な現象」とも言えます。

レヴィ=ストロースの「動的な構造観」

彼は構造を静的なものではなく、「流動的で変化し続けるもの」として捉えた。
この動的な構造観は、単一の自然や文化を前提とする従来の考え方を超えた関係性そのものが絶えず再編成されるプロセスとしての「自然」を主張している。
リーフモンキー鳥の囀りは単なる行動として固定されるのではなく、「森」全体の生態系の中で他の要素との関係を変えながら繰り返される。
この関係性の再編成の中で
鳥、人間、リーフモンキーはそれぞれの役割を果たしながら新たな構造を形成する。
ヴィヴェイロス・デ・カストロの「動く構造」の概念もある
彼は、動的な構造観・構造を、固定されたものではなく、絶えず動き続けるものや流動的なものとして捉えるモデルである。
特定の目的地やゴールに向かって計画的に進むのではなく、予測不能な方向に揺れ動きながら漂うゆらいでいるものとする。
ここで重要なのは、動的な構造が単に混沌を生むのではなく、「新たなパターン」や「秩序」を生成し続ける点にある。
一つの出来事や行動が、異なる立場や視点から見るとそれぞれ異なる意味や役割を持つことは、動物と人間の相互作用を描いている。
ただこれを現代における問いのテーマにしても良いと感じた。

「孤立」や「分断」を防ぐ

パースペクティヴィズムの考え方を異文化理解に応用することで、他者の視点を尊重し、共存の可能性を模索することができる。
プナンの狩猟活動は単なる生存の手段ではなく、森全体との相互作用を通じて構築される関係性の一部として考えてみる。
これがこの本に関しての自然への「見方」なのではと感じた。

まとめ:プナンの哲学と現代社会を繋ぐ「共鳴resonance」の視点

「ありがとうもごめんなさいもいらない森の民と暮らして人類学者が考えたこと」
を読んでみて、プナンの独特の価値観や行動様式は、僕らの生活や考え方を改めて問い直すきっかけを与えてくれた。
言葉に頼らずとも分かち合いや信頼を基盤とした彼らの共同体、所有を最小限に抑えた自由な暮らし、そして「反省しない」という現在重視の時間感覚。
これらは、現代社会に生きる人に、異なる視点を提供してくれると感じる。
このプナンの「在り方」を考えるとき、フランスの哲学者メルロ=ポンティが語る「共鳴resonance」の概念が一つの鍵となるなと全体を通して考えてみた。
彼の思想では、人間の存在は「他者や環境とのカップリング」の中で形作られる。
「世界との関係は固定的ではなく、常に新たに生成される動的なものだ。
この「共鳴resonance」という考え方を通じて、プナンの生活を捉え直すと、彼らの信頼や分かち合いが、「行動や態度を通じて常に生成されていること」が分かる。

プナンの社会では、「ありがとう」や「ごめんなさい」といった言葉がなくとも、分かち合いや信頼が当たり前に日常生活にある。
それは、言葉に頼らずとも共同体の中で人々が互いに作用しあっているからだろう。
他にも、狩猟で得た獲物を個人で所有せず、共同体全体で分配しようとするという行為。
そこには、言葉で伝える「ありがとう」や「ごめんなさい」を示さなくても、行動そのものを通じて信頼が深められている。
この仕組みは、「共鳴resonance」という相互性が成り立つ社会の一つの形だと言える。
プナンは物を最小限しか所有せず、必要なものを共有することで生きている。
その生き方は、現代社会の消費主義や所有を基盤とする価値観と真逆に位置するものである。
これをメルロポンティの「動的な存在」という視点で考えてみる。
彼らにとって物は固定的な「所有」物ではなく、共同体の中を行き交う「流動的なもの」である。
所有を執着の対象とするのではなく、分かち合いを通じて関係性が深まる。
これは、物質が他者とのつながりを生み出し、共感や相互作用を引き起こす媒介として機能していると捉えることもできる。
プナンが「反省しない」という哲学を持つ理由の一つは、「過去を悔やむ」ことよりも、現在に集中することを重視しているからである。
この時間感覚もまた、「共鳴」の一形態と考えられる。
メルロ=ポンティは、「現在の身体が周囲と共鳴しながら生成される」と主張していた。
プナンの生活もまた、過去や未来に縛られることなく、現在の行動や選択が環境や他者との関係を作り上げている。
言葉や所有に過度に依存している「現代社会」に対して、異なる価値観がある。
それは、分かち合いを基盤とした社会のあり方や、他者との信頼関係を行動で築く方法、そして過去や未来ではなく「現在を生きる時間感覚」である。
プナンの考え方には、私たちが忘れがちな「つながり」や「共有」の本質が浮かび上がってくる。
それは、単にプナンの生活様式を模倣するのではなく、私たち自身の社会に適した形で再構築するための示唆となる。
感謝や謝罪を言葉で表現するだけでなく、行動そのものが他者との共鳴を生み出す社会。
所有に囚われず、モノが僕らを繋ぐ媒介となる暮らしをするためには、僕らの価値観を根底から揺さぶる必要がある。
なにかモノを持つことを「自分の船に荷物を積む行為」に例えるなら、その荷物が増えるたびに船は重くなり、動きが鈍る。
僕らはその重みに耐えながらも「もっと積まなければ沈んでしまう」と思い込んでいる。
しかし、本当に必要なものだけを選び、それ以外を海に手放すと、船は驚くほど軽やかに進んでいく。
プナンから学ぶなら、物をただ所有するのではなく、それを人々と分かち合うという発想が重要なのかなとも感じた。
誰かから譲り受けた古いカップに注がれるお茶は、その持ち主の記憶を運び、飲む人の心に新しい味を添える。物はただの道具ではなく、関係性を結ぶ橋となる。
この暮らしを実現するためには、まず「必要な分だけを持つ」という選択の勇気が求められる。
手に入れた物を抱え込むのではなく、他者に手渡すことでその価値を広げる。
物を共有することで、僕らは物を通じて響き合う新しい繋がりを見出すだろう。
所有の執着から解放され、物が僕らを繋ぐ媒介となる世界。
それは、物が「持つべきもの」ではなく「伝えるべきもの」へと変わる瞬間だ。
そして僕はその可能性を感じながら、本を読み終えた。


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