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僕らは役に立つために生まれたのか

先日、ある人からこんな話を聞きました。

「私は役に立てているのだろうか」

これ自体はごくごくありふれた悩みかもしれません。

もう少し詳しく紐解いていくと、
「今の仕事は人との繋がりが見えず、誰かの為になっているという実感が得られない」
ということだそうです。

実際はもっと色んな話を聞いたのですが、今回僕が考えたいのはここです。

人間であれば当たり前に思える、人の役に立ちたい、或いは役に立つのが良いことという考え方について、
疑っていこうと思います。

このことを考える上で、「歴史」について考えていくことが肝だと思っています。

「歴史」には2つあります。
それは「その人としての歴史」と「人類としての歴史」です。

まず1つ目の「その人としての歴史」とはつまり「人生」のことですね。

人生の時系列と「役に立つこと」について考えていきましょう。

いったいいつから人生の中にこの概念が顔を出すのか。

それを考えてみると、当然のことながら産まれて間もない人間、赤ちゃんに「役に立つ」という概念は無いはずです。

「ママとパパのために生まれてきたんだ〜!」

という赤ちゃんはいないでしょう。

「ママのために泣くのを辞めよう」という乳児もいないでしょう。

原初の段階では「役に立つ」はまだ顔を出しません。

ではいつ頃からその概念は登場するのでしょうか。

おそらく物心というものを持ち、
「可愛いけどにくたらしい」なんて言われるようになる年齢からではないでしょうか。

お父さん、お母さんの役に立ちたい。
お手伝いという概念が出てくる頃ですね。

「働かざる者食うべからず」なんて言葉もこの辺りから聞くようになるかもしれません。

そこからはもう人生を細かく追っていかずとも、この「人の役に立つ」という概念が人生において大きな比重を占めるものになることは自明かと思います。

そしていつしか、両親の役に立ちたいという純粋な幼子の気持ちは、
「役に立たなければ生きていてはいけない」
「役に立つスキルが無いものは生きる価値が無い」
という感情へと変わっていきます。

この個人が抱く感情、それら1つ1つの集合体が現代のその空気を醸成していると言えます。

「能力主義」ですね。

これの是非については改めて別の機会に論じるとして、
続いて「人類としての歴史」と「役に立つ」について見ていきたいと思います。

実は人類の歴史の中で「人の役に立つ」という概念は、
とても新しいものです。

歴史に明るく無い人でも、少し考えればわかると思います。

先ほど挙げた「働かざる者食うべからず」という言葉は、実はソ連のレーニンが広めたものです。

聖書に由来した言葉ですが、有名にしたのは彼でしょう。

レーニンが生きたのは19世紀から20世紀初頭ですから、人類としてはごく最近のことです。

「働かざる者食うべからず」は角度を変えて見てみると
「働かなくても食える人がいる」ということですよね。

人類の進歩、この進歩という言葉は好きではありませんが、
資本主義の勃興や産業革命、科学技術の発展によって、
人類は全員が働かなくても生きていけるようになった。

正確にはもっと前から、働かずとも生きていける人はいたわけですが、
それは王族や貴族、資産家など限られた人たちだけです。

僕たち庶民が、「生きるために生きる」必要がなくなったことが、
人類の歴史においてつい最近のことであるという事実は、
みなさんおわかりと思います。

人類はその歴史の大半において、「生きがい」「やりがい」なんてものに悩む必要がなかった。

なぜなら否応なしに生きるために生きる必要に迫られていたから。

そこから僕たちを解放してくれた、資本や技術、その他色んなものが、
今では逆に僕たちを苦しめているわけですが、
どちらが幸せかなんて話はしません。

僕が言いたいのは、人類の歴史という大きな枠組みで見ると、
僕たちはその歴史の大半の時間において「人の役に立つためには」なんてことを考えていなかったのではないか、ということです。

そして、人類として比較的新しい、できたてホヤホヤの悩みであるのならば、
大きな労力、ストレスを抱えながら苦悩するもの至極当然なのではないか、ということです。

しかし、「生きがい」や「やりがい」「役に立つ」について考えてきた偉大な賢人たちもきっとゼロではないでしょう。

僕は哲学に明るくないのでわかりませんが、きっといたはずです。

その先人たちに学べば、少しはヒントが転がっているかもしれません。

最後に僕の考えを提示しておくと、
僕は「人は誰かの役に立つ必要なんてない」
そう思っています。

むしろそうあるべきだと思っています。

「誰の役に立てなくとも平気な顔して誰もが生きていられる」
そんな世界を作ることが僕の目標です。

顔の見えない関係における
「誰かの役に立ちたい」という気持ちと、
顔の見える関係における
「Aさんの役に立ちたい」は別種の感情だと僕は思います。

後者は勝手です。
思えばよろしい。行動すればよろしい。
それは自由だし、おせっかいだろうがありがた迷惑だろうが、
元来優しさや利他はそういう性質のものです。

前者の、「なんとなく誰の役にも立っていない気がする」
「私はここにいていいんだろうか。」
という気持ち。

この気持ちを抱くときがあったら、取れる策は2つ。

顔の見える近さまで自分で行ってみる。
これはきっと、具体的話に落とし込むと、職場内の人間関係を自分で変えていくか、顧客や取引先の方たちをビジネス視点ではなくパーソナルな観点から見て接する、それともいっそ転職するか、といった話でしょうか。

もう1つの策は、「人の役に立ちたい」という自分の気持ちの原点に立ち帰ってみること。

なぜ私は誰かの役に立ちたいのか。

「役に立たなければなんとなくこの世界にいてはいけない気がするから」なのか。

それともまた他に何らかの原点があるのか。

それを考え、思い悩み苦しむことによって、
同じように「役に立つ」について思い悩み苦しむ人に、
「役に立たなくても、居てくれればいいよ」
と言うことができるのではないかと思います。

まずは思い悩み、体感し、同じ悩みを持つ人の存在そのもの(能力や役に立つか否かではなく)を肯定してあげる。

その輪が広がっていくことで、
「私たちは役に立つために生まれてきたのか」という問いが生まれ、

そこで初めて「純粋にこの人の役に立ちたい」という健全な、後ろ向きでない気持ちが生まれてくるのではないでしょうか。

もう一度言いますが、僕が1番言いたいことは1つ。

人類の歴史においてはまだまだ若い悩みなのだから、
人類みんなで一緒にゆっくり悩み苦しんでいきましょうよ、ということです。

そうやって広い、一歩引いた視点で考えてみると、
少しは気持ちが楽になりませんか。

ならなかったらごめんなさい。


小野トロ


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