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【読書感想文】銀河鉄道の夜

はじめに

この夏、夫と「大人の夏休み」企画をした。
詳しい話は別の記事で書こうと思うが、童心に返って夏休みらしいイベントを満喫しようという目論見である。

お家縁日を作ったりプールに行ったりしたが、夏休みといえば避けては通れないのが宿題である。そこで、夏休みの宿題の王道、読書感想文を各々書いて読み合うことにした。

課題図書は「銀河鉄道の夜」である。文字数は読書感想文コンクール中学校および高校の部に倣い、2000字以内とした。

この読書感想文は、その時に書いた文章である。

「銀河鉄道の夜」を読んで

ヨハネによる福音書15章13節には、「友のために自分の命を削ること、これ以上に大きな愛はない」というみことばがある。
物語を通して描かれている自己犠牲の精神は、正にそれを体現していると言える。

加えて本作には、十字架や讃美歌などキリスト教を思わせるモチーフが多く登場する。現に、主人公の名前ジョバンニは「ヨハネ」のイタリア語読みである。

しかし、これらの要素をもって本作をキリスト教的な作品であると断じることは、些か早計であると私は考える。

宮沢賢治は浄土真宗を篤く信仰する家庭に生まれ育ったが、彼自身は法華経の熱心な信者であり、また学生時代にはキリスト教の教会に通って牧師とも親交を持っていたこともある。
本作は賢治の信仰心同様に仏教をベースとしつつ、キリスト教が融合した独自の宗教観が広がっている。

聖書において、イエス・キリストは罪人である民に代わって、愛をもって十字架にかけられた。即ち、自らの命を投げうった自己犠牲であり、冒頭でも引用したように最上級の愛である。

さそりはからだを燃やして星になることを望み、カムパネルラはザネリを救い溺死する。

一見、キリスト教におけるアガペーのように見える作中の自己犠牲だが、仏教における慈悲の精神をも含んでいるようにも読み取れる。

アガペーが無償の愛、無条件かつ絶対の愛であるのに対し、「慈」とは他者の幸せを願う心、「悲」とは他者の苦しみを取り除きたいと願う心である。

ジョバンニは鳥捕りの幸いのため、自分が代わって鳥を捕ってもいいと考えたり、遠い北の海で働く誰かの幸せを願い「僕のからだなんか百ぺん灼いても構わない」と発言したりする。
こうしたジョバンニの考えや、登場人物の自己犠牲的な行動は他者の幸福を願ってのものであり、慈悲の精神に基づいているといえる。

賢治は農民の文化的な生活を願って羅須地人協会を立ち上げ、自然科学に基づいた農業指導や芸術に関するレクチャーを行った。しかし、理想叶わぬままに病に倒れる。
農民の幸福を願い、献身的な活動を行った賢治の行動原理とその結末が、作中の登場人物にも色濃く反映されているのである。

ジョバンニとかおるは銀河鉄道の車内で互いの「ほんとうの神さま」について問答するが、相容れず議論は平行線のまま終わる。かおるや青年の言う「神さま」と、ジョバンニの言う「神さま」は根本的に定義が食い違っており、議論が噛み合っていない。

かおる達の「神さま」とはキリスト教の唯一神を指していることは明白だが、ジョバンニの指している「神さま」とは一体なんだろうか。

世界の真理、宇宙を構成する物理法則のような、自然科学に基づく絶対的な真実であると私は考える。

ジョバンニは青年に対し何度も「そんなんでなしに」と返す。この言葉は、青年の言う「宗教的な唯一」に対し、自分が「神さま」と表現したい「唯一」は異なる概念の存在であることの主張ではないだろうか。

また、ジョバンニは宇宙や科学に対し興味関心を持っており、多少の知識を持ち合わせていることが物語の冒頭で読み取れる。このことも、彼が自然科学を「ほんとう」として信じていることを示していると言えるだろう。

しかし、ジョバンニとかおるの議論には結論が出ない。
自然科学と宗教や芸術とを両輪として、「ほんとうの幸」に近づこうとした賢治にとって、それらはどちらかが優位に立つものではなく、並列し得るものであったと言える。

自然科学に興味関心を持ち、「ほんとうの幸」を探す銀河鉄道に乗車するジョバンニは、賢治自身の投影であろう。
銀河鉄道に乗ってなお現世へと下車してくること、すなわち、自らを犠牲にすることなく「ほんとうの幸」を手にすることこそが、理想半ばで斃れた賢治にとっての最大の望みだったのかもしれない。

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月々
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