「できない」と「やる気がない」は違う
私は、みんなに比べて全然できない、、、。
やる気はあるのにできない、、、。
そんなふうに劣等感を感じて何かを諦めていくことは誰にでもある気がする。そのことについて今の働いている環境から思う静かな怒りをつらつらと書いていこうと思う。
私は今、南オーストラリア州アデレードにある公立のハイスクールにて、アートを使って日本語を教えている。
この生活も、あと残り1ヶ月となった。
13歳と14歳の日本語を勉強し始めたばかりの生徒76人を担当している。
彼らは週に3回、計210分(日本の一般的な50分の授業に換算すると週4回分超)日本語を学んでいる。
AとBとCの3クラスに分かれているのだが、それらは成績順で分けられている。Cが1番、理解力、読解力、ライティング力、日本語力が高いので、授業のスピードが早い。Aクラス、Bクラスは、授業態度だけ見ればやる気のないように見える生徒や、自閉症を持つ生徒、名前の性別を変えた生徒、ウロウロする生徒もいて、授業の進め方はそれぞれのクラスで変える必要がある。
今回、私の上司が課した日本語のテストでEという1番悪い点数を取った生徒が2人、しかも、1番優秀なCクラスにいた。その2人以外のクラス全員は、AもしくはA+を取っていた。
テストを返すと上司が言ったとき、その2人は、とても悲しそうな表情に変わった。きっと点数が悪いことは分かっていて、内心では点数を取りたい気持ちがあるんだろうな、と想像した。2人は普段、不真面目な生徒ではない。むしろ、他の生徒よりも、授業を楽しみにしている印象を持っているし、話もよく聞いてくれるし、質問もしてくれる。でも、作業になると一人はぼーっとしていることが多い。そして、上司曰く、この点数は親にも知らされていて、保護者が、自分の子供がどうしてそんな悪い成績をとるのか分からないと怒っているらしかった。それを聞いて、その2人のことが更に心配になった。というのも、私も高校生の時、意欲はあっても全く点数が取れなかったことがあった。心の中では、ものすごく勉強したいし、しなきゃいけないことはわかっていた。でも、だれにも相談できない家族のことやそのほかにいろんな問題が頭の中はいっぱいで、まったく勉強に集中できなかったことがあった。
自分の興味関心のある事柄には敏感に反応して、その瞬間は力がみなぎるのにも関わらず、作業になると脳内がフリーズしてしまう。その時々に何を考えるべきかよく分からなかった時期が約2年ほどあった。
今回Eを取った生徒が、私と同じ状態ではないと思うけれど、私が言いたいことは2つある。
一つは、できない理由を分析すべきということ。
これは学校現場だけではなくどこでも当てはまると思う。
知識や技術が足りなくてできないのか、単にやる気がないのか、やる気があってもできない環境にいるのか、そもそもやる必要を感じていないのか、ということである。
私の場合、やる気はあったができない環境だった。そして、これに気付いてフォローしてくれる人はいなかった。どの先生も大人も、点数が低い・宿題を提出しない事実だけを見て、私を怒った。そして、「なんでできないの」と私に聞き、黙って理由を言わないと、「なんで理由を言わないの」とまた怒るのだった。こんな感じでは、学校教育の意味なんて全く無いとその時は思った。できる人は、できない人を意欲のない人間だと捉え、それを悪と決めつけることがある。というか、そういう大人が多い気がする。親も社会人も先生も、本当に一人の人間の背後にある本質を見ようとはなかなかしてくれない。というか、そんな余裕が彼らには無いのだと思う。
そして、二つ目に、できない場合のほとんどの場合が、後天的に身に付けた能力的にできない・適性が育っていないことが多いということだ。
能力的にできないから、やる気を失ったりすることはよくある。ただ、その能力や適性というのは先天的なものではない場合が多い。後天的に身に付けた能力がほとんどで、それら(知識力・適応力・技術力etc)を家庭や学校で十分に学べなかったから、社会に出た時に困る人が出てくる。きちんと学び時間をかけて練習をすれば後天的なものはできるようになるし、先天的な機能も高めることはできる。でも、その猶予さえも許してくれない世界が多すぎる。
学校でもバイトでも職場でも、できないことはだれにでもあるのに、多くの人は、それらを人格に結び付けるから、できないことを恥ずかしいと感じて、やる気はあるのにできないという環境が成立し、その果てに、やる気もなくしたりする。
そんなわけで、話を戻すと、私が担当しているクラスで、成績にひどく落ち込む2人に考えられる要因は、
1.能力的にできない(訓練する時間がたりていない)
2.適性がない(先天的な機能に合っていない)
3.単にやる気がない
4.やる気はあるのにできない環境にある
5.そもそもやる必要性を感じていない(既にできているor興味が皆無)
のうちどれかだ。その二人の様子を見る限り、考えられる要因は1か4のどちらか、もしくはその両方である。だから、私は個別に日本語を教える時間を取ってあげるべきだろうし、できない環境があるとしたらそれは一体何なのかを見抜く・もしくは察してあげたうえでのコミュニケーションを取るべきだと思う。
そして、クラスの中にいる1人や2人といったマイノリティを、学校は放置してはいけない。ただ、家庭の事情が絡む場合は、学校や先生ではどうにもできないことがある。その時は、その生徒の情報を、関わる先生の間で共有し、指導方法や対応をあらかじめ議論しておくべきだと思う。
私は幸運にも、点数としての成績評価が必要のないアートを用いて日本語を教えている。教えるというより、アートの作業中に、日本語にたくさん触れてもらうということをしている。彼らに日本語を習得してもらう義務は全くない。それに、日本の英語教育のようにネガティブな感情を持って勉強する必要性も無い。もっと、言語そのものに、わくわくしたり、知らないことにドキドキしてほしい。私は今、彼らのアート作品とその説明をみて、虚無感、孤独感、悲しみ、嬉しさ、情熱、興味、好奇心、安心感、こだわりなど色んな感情を感じる取ることができる。そして、それらの作品をみて、どれがいちばん良いという評価が無い上で、どのようにそれぞれの作品のすばらしさを生徒たち伝えていこうか考えている。この授業の時間の間は、正解はどこにもなくて、どんな心情を持っていたとしても、それを素直に表現してもいいということを感じてほしいし、その心の健康を保った上で日本や日本語に興味をもってくれたら嬉しい。私は日本語を教えるためだけにオーストラリアに来たのではなくて、アートをわざわざ組み入れたプログラムにしたのも、担当した生徒にとっていい意味で、逃げ道にも安心する場にもなり、同時に主体的な学びや好奇心が生まれる環境を目指すためだったんだと気付いた。
大事なものが一体なにかを考える時間がない、もしくは変化できない組織や環境を、私はこの先の人生で選びたくない。
どんなに世間体が良い道であったとしても、それを子供が選ばない選択も許されて、別の道も用意されている世の中になるといいな。
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