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方丈平家物語  伊藤俊也箸 そのー

方丈記、作者は鴨長明、いつの時代に書かれたものか、そもそも鴨長明とは何者、平家物語は、誰が書き記したものか、語り始めの名文を読めば僧侶ではないかと思う。方丈平家物語とは。早速ページを開いた。前文がありました、令和二年に京都日野のある寺の住職が、日頃気になりながら長年開かずの扉と言われてきた土蔵を開くことを思い立っ。実はいろいろな風説があって、開けるにはそれなりの勇気がいった。半ば恐々半ばいや増さる好奇心、いざ開けてみると埃こそ積もっていたが、中は整頓さのれていた、先ず興味のある古文書の類を探すところから始めた。そして発見したのが、鴨長明作[方丈平家物語]と書かれた一冊の書物であった。住職は[方丈記]を愛読していたので、その文体に似通うところもあり、まさかと思いながらも丁寧にそのコピーを取り、現物は手元に残しそのコピーを付き合いのあるその道の権威、京都文化センター付属古文書名誉館長宛に送って鑑定を依頼した。直ぐに返事があり、即座に判を下すことは出来ないが、調べるには充分値打があることをつたえた。たまたまその名誉館長とは中学以来の親友であり、その伝手で古寺の住職とも会食をしたことのある私が、ご両人の許可を得て今回現代語に訳してみた。二人が私に許可を与えてくれたのは酒席となると門外漢のくせに、鴨長明こそ[平家物語]の作者ではないかと主張して憚らなかったのと、長年[平家物語]の映画化を心にかけていたことを知っていたからである。この書が偽書である可能性は今のところ半々だと、名誉館長は言う。目下その筋の気鋭の学者たちをも動員して吟味しているということだ。私のこの現代語訳が世に出る頃には、その真贋に判が下されているかもしれない。訳者記す。本誌より。
 本文より、欠けはじめていびつになった満月の名残を見上げながら、これから日毎に光る部分を失って行き、また満ちていく不思議を思い、人の一生もそのようであって来れば面白い、さほど遠くない先に、私が光を失うのは目に見えている。月さえ、光を失ったまま遂に蘇ることのない日がいつか来るだろうか。その時語り始めの一行がふと口をついて出た。まるで天から声が降ってきたように感じた。後はほとばしるように続く、この一行が見つからず呻吟していたものを、これできまった、後は順序立てて自分の知るところ、また身をもって時代に触れたところの事象を綴っていけばよい。己の記憶を辿り返してみる。あの時代のことは生々しく蘇る。
 鴨長明は下鴨神社の正禰宜[下鴨神社の神官の最高位]の鴨長継の二男として、久寿二[千百五十五]年に生まれた。その翌年に保元の乱が起こり、平治元[千百五十九]年平治の乱が怒っている。長明は七歳の時に従五位下の官位を与えられ、頼もしい父親の比護の下に、穏やかな日々を送っていたが、鳥羽院の皇女妹子内親王に乳母として仕えていた、父方の祖母おほばの実家を継ぐことになる。父とおほばそれぞれに過ごす時間が増えて、私の世界を一気に拡大する。父から手ほどきを受ける漢籍や万葉集は、一気呵成に吞み込んでも決してむせることなく、心地よく胃の腑に沁みていく。それを見て父は作歌を始めさせた。一方私が生まれると同時に母を失ったので、おほば私の幼児時代を取り戻すように、私と寝屋を共にして寝かしつけるためのお伽噺を聞かせるように、様々な物語を語ってくれる中に、源氏の君の物語、今昔物語等、もう一つのおほばの現実味に満ちた世間話だった。その話は平忠盛郷は武人にして、歌の詠める教養人であったこと。院の御所に相思相愛の女房がいて、忠盛の置き忘れた月の絵のある扇を同輩のある女房に問い質されたのに対して、[雲井よりただもりきたる月なればおぼろけにてははじとぞ思う]これはただもりというのが、忠盛来たると読めるというので、繰り返しおほばが喋っている間に覚えてしまった。忠盛とこの女房の間に生まれたのが薩摩守忠度だという、この世の物語の連鎖ほど面白い。だがその頃出世街道まっしぐらの息子、平清盛に注がれるおほばの視線は厳しかった。白拍子祇王、祇女姉妹と仏御前との顛末、人の道に外れる外れないの問題じゃない、女を人と思っていない、この化け物はどうせこいつは碌な死に方はしないよと続ける。ああもういやだいやだと言いながらおほばの話は続く。十歳の春初めて父長継の主催する歌会に出ることが許された。歌会には後に師匠とする源俊恵、歌道の六条家を継いだ藤原清輔の弟の季経、賀茂上社を筆頭に各摂社の神職達。歌会に座り始めて一年、雁を読めるの題に合わせて、父の歌会で披露したところ、その場に居合わせた一同から絶賛の言葉を浴びた。中原有安について琵琶を習い琵琶にものめり込む。長明が十九の時父が急死。おほばの猶子が生んださよと婚儀を上げる。縁戚の祐季が下鴨神社の禰宜となる、それからの十年余りは、京都に大火、京都に竜巻が襲う、福原へ遷都が行われた。二十七の時[鴨長明集]成り、大飢饉と疫病がひろがる。京都に大地震が起きる。ついに藤原俊成の編集、[千載和歌集]に歌がとられるまでに、建仁元[千二百一]年後鳥羽上皇が和歌所を再興した。新しい勅選和歌集の編集に備えて第一次の寄人が任命された、二十代から三十代結婚生活に破れ、和歌を生きがいとしていた長明にも第二次の寄人の一人として追加された。左大臣良経、内大臣通親、慈円、俊成、定家、家隆、雅経、源家長などと[新古今和歌]の仕事を続け、後鳥羽院の信任も厚かった。歌の道が開けてきて晴れがましい日々が重なる。翌年下鴨神社の摂社の河合社の禰宜の職が空いたので、後鳥羽院は、代代下鴨神社の重代に生まれながら、しかも神官として長年勤めながら、一向にうだつが上がらない私に対する報奨として、長明をそれに任じようとしたところ、下鴨神社の禰宜祐兼の強硬な反対にあって実現せず。思いがけなくめぐってきた下鴨神社の禰宜への道を閉ざされて気落ちした。後鳥羽院は代案も用意されたが、すでに私は父のあとをついで禰宜になる、という夢は殆ど捨てていたが、父もこの職から下鴨神社禰宜へと進んだことでもあり、ただ父の跡を継ぐという眼目であっただけ。だからこれを断る道しかない、河合社がかなわなかったから、他の素性もわからない神社の禰宜に、納まることなどということは、弘兼や弘頼に対する私の自尊心が許すわけにもなかった。これは上意である上意に背いて和歌所にとどまるわけにはいかない、そのことを家長には伝え断腸の想いで歌合い所を後にした。今後のことを考え、下鴨神社に使いをやって当分社務を休むと伝えた、河合社禰宜問題以降顔を出していない、決着がついた以上手続きだけはしておこうと、決して復帰する考えはなくこのまま身を引くことは目に見えていたが、以上全ての公の仕事は失ったことになる。歌会の報せだけは届けると、家長は言ってくれたが結果的に上皇の顔を潰し、理由はともかく一方的に和歌所から身を引いたのに、歌会に出ていく図々しさはない、すべくを失った今私は何をよすがとして生きるべきか。その二へ続く


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