085.シネヴィヴァン六本木
1983年11月、六本木交差点から渋谷寄りに少し行ったところに、シネヴィヴァン(CINE VIVANT)六本木というミニシアターができました。第1回目の上映作品は、ジャン=リュック・ゴダール監督の「パッション」で、主演はイザベル・ユペールでした。
シネヴィヴァンの思い出を語ろうとすると、不思議な感覚にとらわれてしまいます。あの頃の記憶があまりにも鮮明なので、シネヴィヴァン六本木がもうこの世にないことがうまく信じられないのです。それは、今朝出てきた家が実在していることに何の疑いもないというのに似ています。
そうは言っても2000年代初頭から、六本木の町が大きな柵に囲まれて多くの重機で切り崩されていくのを、私はつぶさに見ていました。日々、町がどんどん音を立てて崩壊していく様子を、言葉にならない思いで柵の隙間から見つめていました。
街というのは、その街の住人だけでなく、その街に集う人々と共に構成され、命が吹き込まれていくものだと思っていましたが、ある日、一部の人々の了解だけで、突然街が変貌を遂げてしまいました。災害や空襲などで思い出の街並みが消えていく話はいくつも見聞きしてきましたが、「再開発」という名のもとに、「我が青春の思い出の地」が文字通り音を立てて消えていくのはなんとも言えない気持ちでした。
あの工事現場を見ていなければ、シネヴィヴァンは、今も我が心の中で健在なのかもしれません。いえ、そんなことはありません。その跡地に聳え立った六本木ヒルズは、もはや私にとってなんの変哲もない日常の生活圏になっていて、その存在に疑いはないのです。
それでも尚、私の中ではパラレルワールドのように シネヴィヴァンのある世界と、六本木ヒルズがある世界が何の矛盾もなく並存しているのです。
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シネヴィヴァン六本木は、1983年当時、新たな文化の担い手として名を馳せていた西武流通グループ(のちのセゾングループ)によって建てられた「音と映像の新しい空間 WAVE」の地下一階にできたミニシアターでした。
西武グループはこれに先立ち、1973年に渋谷にパルコ(PARCO=イタリア語で「公園」という意味)を作り、それまでの区役所通りを「公園通り」と呼び変え、東急の牙城だった渋谷の街の人の流れを東急本店通りから公園通りに変えたと言われていました。東急グループも負けじと1979年に「109(いち・まる・きゅう)」(10・9=トウ・キュウ=東急)を建てて対抗したほどでした。
その上、勢いに乗った西武流通グループは、1980年からは公園通り入口の西武百貨店のキャッチコピーで「じぶん、発見」「不思議、大好き」「おいしい生活」とコピーライターの糸井重里が立て続けにヒットを飛ばし、一気に若者文化を牽引していく存在となっていました。
70年代に東京の西の郊外で中学・高校と多感な時期を過ごし、1978年に大学に入学した私は、友人と公園通りを散歩するのが楽しくてたまりませんでした。当時パルコで売っている服は高額で、アルバイトで学費と生活費を稼いでいた私にとってはなかなか手の出るようなものではありませんでした。しかし若者の垂涎の品揃えでした。
私がパルコで買った一番思い出深い服は、YMO(Yellow Magic Orchestra)のロゴのついたトレーナーでした。私は、1978年10月の六本木PIT INNでの結成コンサートに行ったばかりだったのです。よほど嬉しかったのか1980年4月発行の私の最初のパスポートには、このトレーナーを着た写真が貼ってあります。
すっかり西武の戦略に取り込まれた私ですが、その西武が今度は六本木に新しく「音と映像の新しい空間、WAVE。ROPPONGI・SEIBU」を作ることになったということで、早速、オープニングと同時に出かけて行き、すぐに映画館の定期会員になりました。会員の特典は、映画のパンフレットを貰えることの他、優先入場ができたことと記憶しています。
1983年11月にオープン以来、1985年8月にフランスへ行くまで、上映作品は一作も欠かさずに毎月のようにシネヴィヴァンに通いました。帰国してからもまたせっせと通いました。アンドレイ・タルコフスキー、エリック・ロメール、フィリップ・ガレルの名を覚えたのもこの映画館でした。
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私は1982年に就職しました。その頃週休2日制とは言いながらも、勤務先の会社では毎週土曜日に取締役会が行われていて、社長室秘書課に配属されていた私は、月に一度か二度はこの役員会のお茶出しのためだけに出勤しなければなりませんでした。お茶を出し、お代わりを出し、片付けて湯呑み茶碗を洗い、山盛りの吸殻の灰皿を掃除するというのが私の任務でした。こんなことで毎月毎月、貴重な土曜日がなくなるなんて、他の部署へ配属された同期を羨む日々でした。
ところが、入社して一年半後にWAVEができ、シネヴィヴァン六本木の会員になると、出勤の土曜日が待ち遠しくなるほどでした。そして役員会の後片付けを終えると別人になったように元気になりました。
まず、少し早めにシネヴィヴァンに着くと、会員特典でパンフレットを引き換えます。そして入場整理券を貰います。ただ一々階段を降りたり昇ったりしなくてはならないのが面倒で、一階に窓口があればいいのにと思っていました。あの頃多くの映画館では入れ替え性ではなく朝から晩まで終日映画館にいることができましたが、ここは入れ替え性で、しかも整理券の番号を10番ごとに区切って入場させるという方法を取っていました。なんだかそれもおしゃれに感じました。
シネヴィヴァンの座席はあまり段差がなく、前の人が大きいと画面が見えなくなってしまうので、私はよく最前列で観ていました。ですから何としても10番までの整理券が欲しいと思っていました。とはいえ最前列がそれほど人気があったかと言えばそうでもなく、座席は後ろの方から埋まっていきました。
私は子どもの頃からフランスかぶれで、フランス文化に憧れを抱いていました。せっかく入社できた会社もあからさまな男女差別の中で将来も見えず、どうせなら一番やりたかったことをしようと決め、お給料の半分をフランス行き貯金と週に3日のフランス語学習に充てていました。会社を辞めて1年間フランスに住みたい、それが当時の私の夢でした。
シネヴィヴァンで上映される映画の多くはフランス映画でしたから、格好のフランス語の教材にもなりました。最初の頃はただ無我夢中で観ていた映画でしたが、その内フランス語のディクテの代わりに、小さなメモ帳とシャーペンを持って、意味のわからない単語を聴き取っては暗闇の中で書き留めて、帰りの電車の中でせっせと辞書を引きました。
「シネヴィヴァン六本木でフランス映画を観る」ということは、当時の私にとってはなによりも幸せなことでした。インターネットがまだない時代、欧州を覗き見る数少ない窓を見つけたような思いでした。
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今も大切にしているシネヴィヴァンの映画のパンフレットが手元にあります。なぜか第1号の「パッション」は2冊あります。1冊は会員になる前に自分で購入したのかもしれません。イザベラ・ユペールの主演映画は、この「パッション」を観たのが最初でした。彼女はその後「主婦マリーがしたこと」「マダム・ボヴァリー」「ピアニスト」「8人の女たち」「ジョルジュ・バタイユ ママン」「エル ELLE」「未来よ こんにちは」などで多くの賞に輝き大活躍することになります。
第2号の「コヤニスカッティ」はフランシス・フォード・コッポラ監督、第3号の「ヴァーリヤ!」はニキータ・ミハルコフ監督、第4号の「ノスタルジア」はアンドレイ・タルコフスキー監督でした。私はこの「ノスタルジア」を観て、絵画の中に紛れ込んだような、なんとも言えない幻想的な世界に引き摺り込まれてしまい、シネヴィヴァンに連日通った覚えがあります。
パンフレットには武満徹と蓮實重彦の対談が毎回載るようになりました。今思うと夢のような豪華な対談です。第5号「カルメンという名の女」ゴダール監督、第6号「特別な一日」エットーレ・スコラ監督、第7号「ラ・パロマ」ダニエル・シュミット監督、第8号「ミツバチのささやき」ビクトル・エリセ監督…とパンフレットは続きます。すべて二人の対談付きです。シナリオも収録されていました。
忘れられない日本映画には、小川伸介監督の「ニッポン国 古屋敷村」というのもありました。山形県に当時8軒だけ残った古屋敷村で撮影したドキュメンタリーで、村人の言葉ひとつひとつにすべて字幕がついていたのが印象的でした。大自然の中での農業を営みとする人々は、冷害と稲作、炭焼き、養蚕と共に生きていました。戦前か明治時代かという世界に惹き込まれ、映画が終わって表に出たらここは六本木で目の前に高速道路が走っていて驚いたことをよく覚えています。
エリック・ロメール監督には魅了されました。あまりにもロメール好きが高じて、今ではロメール・コレクションのDVDを揃えているほどですが、私にとってシネヴィヴァン六本木といえばエリック・ロメールというほど、ロメールに傾倒しました。「六つの教訓話シリーズ」や「喜劇と格言劇シリーズ」の数々の作品を観に通いました。
ロメール作品で最初に観たのは「緑の光線」でした。当時の私が自分を投影してしまうような等身大の主人公に共感するところが大きく、何度も観に行きました。「緑の光線」とはジュール・ヴェルヌの『緑の光線』に出てくる話で、太陽が水平線に沈む瞬間に放つ緑の光線を見た者は幸福になれるという話を聞いた主人公のバカンスの物語です。まだユーロスペースが渋谷の桜丘町にあった頃に観た「モード家の一夜」と並んで、ロメールの中で最も好きな作品です。
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早目に整理券をもらったら、六本木の裏通りを散策して、お気に入りの喫茶店に入って今引き換えたばかりのパンフレットを読んで予習をしたり、文庫本を読んだりして映画の上映時間を待ちました。六本木の裏通りには思いがけない風景に出逢うことがありました。路地の先を行くと思わぬ場所に出て驚いたりこともありました。待つことすらも楽しみでした。
WAVEの一階には、「雨の木」と書いて「レインツリー」と読ませるバーがありました。カフェだと思っていた私は、それならとわざわざ大江健三郎の『「雨の木」を聴く女たち』(レイン・ツリーをきくおんなたち)』を買って行き、中で読もうと思っていたら、実はバーで、お酒の飲めない私がソフトドリンク片手にバーで本を飲むという、なんだか滑稽なことになったこともありました。
WAVEの上の階に行ってレコードやビデオなどを物色するのも楽しみのひとつでした。見たことも聞いたことも、聴いたこともない音楽がたくさんありました。音楽も映像も「新鮮」なものばかりでした。あの頃はまだVHS方式かSONYのベータマックス方式か規格が定まっておらず、私はVictorのVHS方法のビデオデッキを買いましたが、友人の多くはSONY派で、ビデオの貸し借りが出来ずに困っていたことを思い出します。
そういえば、ここまで書いて初めて気づきましたが、私は誰かと一緒にシネヴィヴァン六本木に行った記憶はなく、いつもひとりでした。初めて観た映画「風と共に去りぬ」を思いがけなくひとりで観た経験からか(007. 駅前の映画館)、私にとっては映画はひとりで観るものとなっていました。友人と一緒にいる時におしゃべりをしないなんて、そちらの方がずっともったいないと思っていました。
若かった頃のことを思い出すと、世の中の理不尽さに憤りを覚えつつも、向学心に燃え、最新の文化や芸術にアンテナを張りめぐらせて、感性を磨いている気分でいたように思います。この歳になってみると、そんな自分は恥ずかしいけれど、一方でどこか眩しさも感じます。
そんな私の青春そのものだったシネヴィヴァン六本木は六本木地区再開発に伴い1999年12月25日に閉館し、その周辺を含めもはや跡形もなくなりました。跡地は六本木ヒルズメトロハットになりました。
1986年にサントリーホールを含むアークヒルズができた時は手放しで喜んでいた私でしたが、同じ1986年に六本木六丁目地区が東京都から「再開発誘導地区」の指定を受けて以来、気づかぬ内に着々と進められてきた六本木ヒルズの「開発計画」には、ただただ茫然とするばかりでした。
シネヴィヴァンの地を含め、六本木の町が大きな柵に囲まれてブルドーザーが大きな破壊音を響かせて始めた頃、辻井喬のペンネームで詩人・作家としても高い評価を受けた堤清二が率いた、かつての西武流通グループ(その後のセゾングループ)は、グループの中核企業だった西洋環境開発が特別清算したことをもって事実上解体しました。2001年のことでした。
「栄枯盛衰は世の習い」と言いますが、こうして私の青春の舞台は人々の記憶の中へと場所を移しました。