還暦子⁺⁵

1959年生。昭和を30年、平成を30年生き還暦を迎えました。令和も30年生きるのかな? 子どもの頃や若い頃の思い出など、私自身が上の世代に聞きたかった何でもない日常のあれこれを綴っています。100回までは毎週土曜日更新しましたが、101回目からは毎月第一土曜日に新規更新します。

還暦子⁺⁵

1959年生。昭和を30年、平成を30年生き還暦を迎えました。令和も30年生きるのかな? 子どもの頃や若い頃の思い出など、私自身が上の世代に聞きたかった何でもない日常のあれこれを綴っています。100回までは毎週土曜日更新しましたが、101回目からは毎月第一土曜日に新規更新します。

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000.目次

これまで毎週土曜日に投稿してきた記事の目次を作りました。タイトルの横に、主なエピソードの年代を入れました。記事の番号は各記事にリンクしています。尚、*印の記事は再録したものです。 267. 女衒と貧困(他) 266. 修学旅行の後日談(’70) 265. 還暦子の五年間(他) 264.* 乳がんと選択(’10) 263.* 父の召集令状(他) 262. 五輪の思い出(全) 261.* 70年代のファミレス(’70) 260. 歯医者さん(’60) 259.* 環境問題と生

    • 267.女衒と貧困

      先日、友人が宮尾登美子の『序の舞』がおもしろかったと言っていたので、私のような日本画入門者には大家の話が参考になるとも思えないものの、それでもなんらかのご利益を願って近所の図書館へ行ったところ、『序の舞』は持ち運びに不便そうな単行本しかなかったので、たまたま目についた同じ作家の文庫本を借りてみました。タイトルは『生きてゆく力』というものでした。 帰宅して何気なく本を開いた途端に、私は一気に引き込まれました。 との書き出しで、本書は「赤貧の裏長屋」という一章から始まります。

      • 266.修学旅行の後日談

        1976年、高校2年生の秋、私たちは九州へ修学旅行に行きました。地獄めぐりをした別府温泉、雨にけぶる長崎の街並み、晴れ上がった熊本の水前寺公園、広々とした阿蘇の大観峰、平戸大橋のできる前の静かな平戸島などを見てまわりました。 しかし、私にとって修学旅行の思い出として印象深いのは、修学旅行そのものよりも、帰ってきた後の2つの後日談なのでした。 ひとつはクラスの仲間たちで新幹線の車内でやっていたトランプの続きをするために、修学旅行の翌日にわざわざ相模湖ピクニックランドに出かけ

        • 265.還暦子の五年間

          私が初めてこの note に投稿を始めたのは、2019年8月24日、ちょうど五年前の今日、同じ土曜日のことでした。 これまでの五年間、皆さまの「コメント」「スキ」、それに「ビュー」カウントに支えられて毎週欠かさずに続けてくることができました。心より感謝申し上げます。誠にありがとうございました。 今後は、投稿回数を月に一度程度に減らし、不定期に続けていこうと思っています。 ◇ ◇ ◇ 五年前、還暦になる記念に何かをしたいと考え、子どもの頃や若い頃の思い出など、私自身が上

        • 固定された記事

          264.乳がんと選択

          2014年夏、私は乳がんで左乳房の全摘手術を受けました。8年前のことです。 私の乳がんは、浸潤性入管癌、直径5.1cm、範囲は12x9cmの広範囲に及んでおり、核異型度3、ER3+、PgR3+、Her2−、ルミナールA、Ki67は14.9%、リンパ節転移は21個中11個で、レベルⅡまでの腋窩リンパ節郭清、ステージ3c、再発リスクは8-9割と言われました。 私が選択した治療は、全摘手術、放射線、ホルモン剤で、抗がん剤はしませんでした。それでも8年経った今日も再発することなく

          264.乳がんと選択

          263.父の召集令状

          父の十七回忌も過ぎ、今となっては、なぜもっとちゃんと話を聞いておかなかったかと悔やまれることがありますが、そのひとつが父の召集令状にまつわる一連の話です。 父に召集令状が届いたのは、昭和20年(1945年)8月に入ってからでした。父はちょうど二十歳でした。 その頃、父は大阪で電気工学を学ぶ理工系の学生でした。昭和18年に学徒出陣で20歳以上の文科系学生が徴兵され、昭和19年10月には徴兵適齢が20歳から19歳に下げられる中、父はかろうじて学生を続けていました。しかし、実際

          263.父の召集令状

          262.五輪の思い出

          現在、パリでオリンピックが開催されています。連日オリンピックのニュースがメディアを賑わせています。 私の最初の記憶にあるオリンピックは、【1964年の東京オリンピック】でした。まだ幼稚園児だったので記憶は断片的です。それでも東京オリンピックにまつわる周辺的な思い出を以前書いたことがあります(049.東京五輪1964) 【1968年のメキシコ大会】の時には、私は小学校3年生でした。この大会の思い出もあまりありません。かろうじて男子体操の選手らが胸に日の丸のついた白いユニフォ

          262.五輪の思い出

          261.70年代のファミレス

          私が初めてファミリーレストランという所へ足を踏み入れたのは、1973年か4年(昭和48年か49年)、中学2年生か3年生の時でした。その日のことはよく覚えてます。 私は東京の西の郊外で育ちました。中学校から帰宅して、制服を私服に着替えて、また仲良しでよく集まっていました。あの頃友人と話すことはいくらでもありました。私たちにとって一番重要だったのは当然のように好きな男子のことでしたが、高校受験のこと、クラスのこと、部活のこと、先生のこと、家族のこと、おもしろかった本のこと、映画

          261.70年代のファミレス

          260.歯医者さん

          昭和40年(1965年)頃、私は乳歯が虫歯になり、母にバス通り向こうにある歯医者さんに連れて行かれました。 その歯医者さんの門を入ると敷地には飛び石があって、それを十個くらい踏んでいくと模様のあるガラスでできた玄関があり、その左手には緑の芝生が敷き詰められた広い庭があって、真ん中に白いブランコが置いてありました。 母によそ見をしないように言われて、歯医者さんの模様ガラスの玄関を開け、そこで靴を脱いでスリッパに履き替えました。子ども用の小さなスリッパもありました。受付で母が

          260.歯医者さん

          259.環境問題と生活

          「暑い、暑い」が毎日の合言葉です。私は東京に住んでいますが、昼間外に出るには帽子や日傘が手放せません。照り返しでサングラスも欲しいくらいです。 猛暑日は半世紀で四倍に小学生の頃、夏休みの宿題といえば「絵日記」でしたが、朝、居間の柱にかかっていた赤い目盛りの温度計の温度を見て、大抵の場合、27℃台の気温を書き込んでいた記憶があって、時々30℃を超える日があると、わざわざ赤鉛筆で書いたような覚えがありました。 絵日記は朝の涼しい時間にかいたのでしょうけれど、それでも最高気温は

          259.環境問題と生活

          258.新紙幣と硬貨

          新紙幣の発行が話題になっています。渋沢栄一、津田梅子、北里柴三郎ゆかりの地などが日々マスメディアに取り上げられています。 私の子どもの頃は、一万円札も五千円札もどちらも聖徳太子でした。そして、千円札は伊藤博文、五百円札は岩倉具視、百円札は板垣退助でした。 私にとって新紙幣や新硬貨で忘れられないのは、次の二つの思い出です。 ◇ ◇ ◇ まず一つは、初めて五百円硬貨が発行された時のことです。 財務省の通常貨幣一覧のサイトをみると、岩倉具視が描かれた五百円紙幣に代わって五百

          258.新紙幣と硬貨

          257.モロッコ旅行

          ノルマンディに向かう列車のコンパートメントは8人掛けで、パリを出た時には満席でしたが、ひとり降り、ふたり降りしていくうちに、遂に窓際の男性と私の二人だけになったことがありました。1992年の冬のことでした。 なんとなくお互いに視線を交わし目礼をしたところで、その男性にどこから来たのかと尋ねられたので日本からだと答えました。すると彼は自分はモロッコからだ。でももう長いことノルマンディで暮らしていると言いました。 私がモロッコには数年前に旅行で行ったことがあると言うと、身を乗

          257.モロッコ旅行

          256.86年W杯

          現在カタールのドーハで行われているサッカーのワールドカップで、日本は強豪ドイツに続き、強豪スペインにも逆転勝ちし、決勝トーナメントへの進出が決まりました。日本中が歓喜に沸いています。 今では誰もが知っているワールドカップですが、私が初めてサッカーのワールドカップの熱狂を目にしたのは今から36年前の1986年6月のことでした。私は前年から、子どもの頃から憧れていたフランスに滞在していました。この頃はサッカー好きの一部の愛好家を除いて、日本においてはサッカーはそれほど人気スポー

          255.青いエアメール

          この曲が入っているユーミンの7枚目のアルバム「OLIVE」が発売された1979年夏、私は大学2年生、十代が終わろうとしていました。 薄紙の便箋と、赤と青の縁取りのついた青い封筒に、私は憧れていました。封筒には「PAR AVION」あるいは「BY AIR MAIL」などと印刷されていました。なぜ便箋や封筒が薄紙かというと、それは印刷の文字通り、航空便だったからなのです。船便ではなく、航空便。だから少しでも重さを減らすために薄紙だという、その理由にすら、私はときめきました。

          255.青いエアメール

          254.デザイナー

          この夏、ファッションデザイナーの三宅一生、森英恵が相次いで亡くなりました。2年前には高田賢三、山本寛斎も亡くなり、私の中では一つの「憧れの舞台の幕」が降りたような気持ちになりました。 ◇ ◇ ◇ 私がファッションについて語るなんて、周りの友人・知人が知ったら笑止千万と呆れることと思います。オートクチュールと呼ばれる一点物の仕立て服に縁がないのはもちろんのこと、プレタポルテと呼ばれる高級既成服でさえ袖を通すこともなく、還暦過ぎの今日まで生きてきました。 私はファッションセ

          254.デザイナー

          253.本を手放す時

          初めて私が本を売ったのは20代後半のことでした。 私は、子どもの頃から本を読むのが大好きでした。私の家には実用書以外に本というものはなく、いつも図書館で借りてきて読んでいました。小学校の図書館以外にも、家のすぐ近所に篤志家が経営していた子ども向けの図書館がありました(024.うさぎ文庫)。5年生の時に引越しするまで、絵本や童話を借りてきては夢中になって読んでいました。 私の両親は読書とは単に娯楽の一環だと考えているようで、家には「文学」と呼ぶような本は一冊もありませんでし

          253.本を手放す時