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米櫃問答(コメビツモンドウ)

はっきり言って、そんなに凄いとは思っていないコピーライターの糸井重里さんがやっていたことで、「これは、凄い」と思ったことがある。

細かく言えば、当時(おおよそ20年くらい前)は、「凄い――変わってるな」の方も含まれていたので、現在ほど真に迫り凄いと感じられていたわけではないが、今は「凄い――素ん晴らしい」と思っている。

糸井さんは、「ほぼ日刊イトイ新聞」の松本人志さんとの対談(正確にはもう一方含めた鼎談)の中で、大学生を相手にした特別授業中に、“お金を捨てさせる”という体験をさせたという。

「固定観念」を捨て去る訓練として、これ以上の最適解はないんじゃなかろうか。

その後、授業の続きとして学生たちにレポートを書かせた糸井さんは、(お金をトラックの荷台に落とすとか、川に流すというような捨て方だったと記憶しているのが)「このお金がいつか誰かの手に渡るのかと思うとロマンチック」とレポートしてきた学生に対して、「そういうことじゃないんだよなあ」と思ったらしい。
うん、そういうことじゃないんだよなあ。

ややきつめに言うのなら、「喪失感」を味わって欲しいと思っていたわけだ。
傷付いて欲しかったわけ。

どぎつめに言いのけてしまうのなら、「疑似戦争体験」だ。
人生とは、喪(うしな)うもの――。
固定観念とは、失わせていくもの――。

当時、すでに体罰など許されていない中で、そんな野蛮な方法ではない“痛み”の与え方として、糸井さんが脳を雑巾しぼりし編みだした授業だったのかなと、今想像する。
まあ、この場合の体罰と戦争は違う意味合いであるし、体罰と違って戦争は、その辺りにいる個人で起こせるものではないが。

しかし、「貨幣の放棄」と「戦争(後・跡)」は、規模こそは途方もないほどに違うが、現代人に対し、通底したものを与えられると思う。

個人的には、小学生の内に「お金を捨てる」授業を、カリキュラムとして採り入れるべきなのではないかと思っている。
きっとハレーションは起こるし、小さくない抵抗勢力が生まれるだろう。「世間」は反対に回るように思える。

しかし、たとえば、主に弱者が被害者になるストーカー事件などで、加害者側に接近禁止措置(半径何百mに近付いたら逮捕する的なやつ)を行うよりも、社会をより良く循環させるのではないか――。
状況・症状が悪化するより先に、“捨て慣れ”させておく。一つのもの(価値観)に執着し過ぎないための予防措置。
個人の精神衛生を鑑みて――
「喪失耐性」ワクチン接種。

コロナ禍で露わになった最大のものとして、「生命至上主義」があると思う。
もちろん、優先順位は「命」が一番だろうが、その一番と二番との間に、果たしてどの程度の差があるのかで、最終的に、世間が割れた。
割れたということは、「生命至上主義」に「?」と思った人たちが、ある一定勢力となるまで膨れたからであって、個人的には喜ばしい現象(兆候)だったと思っている。
話はやや逸れてしまうが、「生命至上主義」に傾倒していた人ほど、日本のコロナ政策を「コロナ敗戦」と言明していたような気がする。

だから――さっぱり解らない。
一体何が「コロナ敗戦」だったのかが。
さっぱり解らなさ過ぎて、「コロナ敗戦」とは“打倒!自民党!!”のスローガンだったのだと思っている(ラサールIさん、暇だったらお付き合いしましょうか?)。

話を戻すと、「貨幣の放棄」をカリキュラム化することに反対するであろう世間と、「コロナ禍」において命のみがごりごりに大事だとしたゴリ押ゴリ夫・ゴリ子さんたちは、重なっているのではないかと直感的に思えるのだ。

「命も大事」「お金も大事」――いや「ないよりはあることが大事」。
わかる。しかし、それを踏まえた上で、「なくすことも大事」。

“あればあるほど、あるほどにいい”という治療法(教育方針)は、もはや現代人には適さないのではないか――?
因習じみている。
過剰摂取ではなかろうか。

――と朝の身支度の時間で、レンチンご飯の縁にあるカピカピになりかけた米粒を、わざわざ掻き集めながら思った。
「こんなことをして一体なんになるのか?」
そう思いながら掻き集めて空になったレンチンのパックを可燃ごみとしてごみ集積場に捨てに行き、最終的に仕事に遅刻した。
どれほど遅れたかは言わないが、玄関を出る2時間前には起きていたのだが(苦笑)。

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