サブカル大蔵経496パオロ・マッツァリーノ『日本人のための怒りかた講座』(ちくま文庫)
私は怒らないためにすぐ怒るのです。ささいなことで怒るようにしなさいと勧めたいのです。p.56
これを家族に、自分がよく怒る理由として伝えましたが、言い訳だと不評でした。
日本人が同じことを言ったら、すとんと入ってこないのかなあ。
怒らないようにする、怒らずに生きるというのは一見とても穏やかな人間になることのように思います。でもそれを極めたところでたどり着くのは、おだやかさでも、暖かさでもなく、無関心です。自分のためにも怒らない、他人のためにも怒れない。p.104
日本を言い当ててる。
なんで外国人の書いた日本人に向けての提言ってこんなに面白いのだろうか。日本人が気づかないところ、おかしいと思わないところが見えているからだろうか。
しかもそれをユーモアを持って突き離さずにほんとに丁寧に諭してくれるから敬ってしまう。
他人のことに口出しすべきではない?またまたぁ。他人のことに口出しすることほど楽しいことありませんよ。p.150
表紙絵は『鈴木先生』の武富健治さん!
よその子を叱ったり注意したりするときは必ず真面目な顔をすること。決して笑顔を見せてはいけません。これが基本中の基本です。p.43
私はすぐ笑顔でごまかしてしまいます。
怒鳴りません。子供相手なら◯◯してくれないか、◯◯やめてくれないか、大人が相手なら、すいませんが◯◯してくれませんか、すいませんが◯◯をやめてくれませんか、といった調子で真面目な顔で話かけます。そういう点でも注意ではなく交渉なんです。そうやって冷静に交渉できるのは問題が些細なうちに相手に言うからです。p.61
問題が大きくなる前に具体的に告げる。
迷惑を被ってる側の理屈。「こっちは今まで散々ガマンしてやったんだから、そろそろお前の方が自分勝手な迷惑行為をやめる頃合いだぞ」。迷惑をかけてる側の理屈。「今までずっと黙認してきたじゃないか。突然キレだして、今さら辞めろなんて勝手なこと言うな!」怒りをガマンする事は、やはり無意味です。いくらあなたがガマンしてもその努力は相手には全く伝わらないからです。ガマンすればするほど、互いの意識のズレは大きくなるだけです。ガマンはみんなを不幸にします。じゃあ、どうすべきなのか。ガマンしなければいいんです。p.69
その通りだと思います。我慢は、私が我慢してあげたのに!という自慢です。
仏教では自己に執着することもいけないとされます。「我慢」と言う言葉ももともとは仏教用語で、自己にとらわれることだから、我慢してはいけないのです。p.100
外国人が仏教のこと言ってくれるだけで嬉しい。いや、仏教はもともと外国人の考え方か…。
気が向いた時だけ注意すれば充分なのに、真面目な人ほど、自分の正義が一貫性を欠くことで悩んでしまいます。だめですよ、そんな考え方をしたら、エセ完璧主義のゴールに向けて、迷走を始めてしまいます。正義のためではないというのなら、じゃあ私は何のために他人やよその子に注意したり叱ったりするのでしょう。答えは簡単です。自分が気に食わないから。自分が不快に感じたから。自分のために怒ろう。p.130
自分のために怒る。人の為には偽。
たまたま自分の目や耳に入った声が不愉快に感じたときだけ、自分の手の届く範囲だけ注意すると決めてるから、私は無理をすることがありません。自分のためなのだと考えた方が、気負うことなく、他人に冷静に注意することができるのです。正義のためと考えてしまうとうまくいかなくなる理由はもう一つあります。正しさの基準が個人個人で異なるからです。p.133
正義の誘惑に、惑わされない。
皆さんも正義の味方になろうだなんて夢にも思ってはいけません。p.169
結果を求めて怒ってはいけない。