サブカル大蔵経150井筒俊彦『意識の形而上学』(中央公論新社)
真如、心。古代と現代の架け橋たらんとする碩学の遺書。
真如とは、字義どおりには、本然的にあるがままを意味する。真は虚妄性の否定。如は無差別不変の自己同一性。原語的にも、ありのまま性の意。だが、この語が仮名に過ぎないとは、一体どういうこと。p.26
「真は虚妄性の否定」
辞書で「真」を引くと、井筒さんが記したように、〈あるがまま〉と書いてあり、驚いたことがあります。
「真」とは、〈真っ直ぐ〉〈正しい〉〈ぶれない〉のような意味かと思ったら、〈あるがまま〉だと。
「如は無差別不変の自己同一性」
如も記載通り〈あるがまま〉の意味ですので、「真如」という〈あるがまま〉がやって来るというのが「如来」なんですね。その人にとっての〈あるがまま〉が、やって来ます。
でも、人間にとって〈あるがまま〉でいることは最も難しいことだと思います。どうしても繕い、誤魔化していきます。その私に届けられる一番の〈あるがまま〉が親しい人の〈死〉なのかもしれません。
「真」の旧字「眞」を白川静『字通』で引くと、「首」が逆さまになっている状態、つまり行き倒れの死体とあります。「道」という字に「首」があるのもそういうことだそうです。つまり、なぜ「真」が〈あるがまま〉を表すかというと、道端の死体こそが〈あるがまま〉そのものなのだと。
ちなみに、浄土真宗という宗派にも「真」という文字がくっついているんですが、あらためて「真」とはなにかを共有していきたいです。ぶれてもいい、迷ってもいい、あるがまま。
真如と名づけた途端に、それは真如なるものとして切り分けられ、他の一切から区別されて、本来の無差別性、無限定性、全一性を失ってしまう。だからこそ起信論では仮名に過ぎないと強調を繰り返した。p.29
その〈あるがまま〉が難しい理由。名付けることの功罪。名付けることで顕れてくるが、名付けることで見えなくなる本質。「真如」と名付けられたとたんに、〈あるがまま〉ではない別な「正しい何か」と誤解してしまいます。その時点で仏教ではなくなるような気がします。
あえて古い仏教語「心」を現代の文化的普遍語「意識」にホンヤクし…両者のあいだに薫習関係を醸成しようとした。p.69
心と意識の薫習関係。言葉に惑わされ、言葉に燻されて、育まれる間柄。
私が本を読むことは薫習なのだろうか。とたまに思います。書き手の沢山の工夫を気づかないまま、ただ消費している自分がいつか〈読める〉ようになるのだろうか。では〈読める〉とは何なのか。
不覚から覚、覚から不覚…。輪廻の円環は、いつまでも、どこまでも、めぐりめぐる。p.184
覚って終わりではない世界を「輪廻」と呼ぶんですね。