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原爆の日、文学の力

今日は79回目の広島原爆の日、広島の街に最初の原爆が落ちた日。

今年6月に広島に行ったとき、それは単なる観光だったけども、10年近くぶりに原爆資料館に入った。
最後に資料館に入ったときから何度か展示内容が変わっていることは知っていたけど、「ああ、昔この展示見たな」という感覚がほとんどなくて、
だから多分ガラッと変わったんじゃないかと思った。

昔は重度の火傷を負って、腕から皮膚が垂れ下がった女性の蝋人形があって、今でも原爆と聞くとまず真っ先にあの人形が思い出される。
その人形も無くなっていて、主に遺品と写真が中心の展示になっていた。

展示パネルの説明は被爆者個人の経験に焦点が当てられていて、焦げて溶け落ちた遺品を前に、持ち主がどのような最期を迎えたのか、淡々と説明されている。
その淡々としている文体が、むしろ生々しくイメージを想起させる。
子ども用の三輪車や、血の飛び散ったもんぺは本当に見るに耐えない。

でも思ったのは、パネルを読まずに素通りしてしまえば、あまり原爆の惨禍を直視することなく見学を終えられること。
蝋人形みたいに、否が応でも地獄を目撃してしまうような作りにはなっていないように感じたことだった。

これも”配慮”というやつなのか。

見学後、なんとなく不完全燃焼だった私は、売店で『セレクション戦争と文学1 ヒロシマ・ナガサキ』というアンソロジーを買った。

この2作品目に大田洋子の『屍の街』という作品が入っていて、読み始めたら止まらなくなった。
ここにこそ、資料館で展示できていなかった、そしてぜひとも展示すべきだった内容が記されていると思った。
たとえば以下のようなこと。

原爆がさく裂した時、人々はみんな自分の真上に爆弾が落ちたと思った。
辺りは夜のように暗く(土ぼこりと煤)、静かだった(阿鼻叫喚してる人なんて誰もいなかった)。
少ししてご近所で集まり、無事を確認しあったが、みな「空襲」とか「焼夷弾」とかいう言葉は口に出さないよう気遣っていた。”士気が下がる”から。
生き残った人々は、避難指示が出るのをじっと待っていた。避難訓練でも、必ずいつも誰かが指示してくれたから。そんなもの出る筈もないのに。
火事から逃れるように川岸に行って初めて全身火傷の人に出会ったが、普通に言葉を交わした。
そのときはじめて、全市が被害を受けたことを知った。油をバラまいて火をつけたのか、とかいろいろ憶測した。
全身火傷の人が死に始めたのは、その日の夜遅くからだった。

こうした細部を知ることで、原爆が本当に都市に落ちたのだ、本当に大勢が死んだのだということが、現実的に感じられた。

また、井上ひさしの『少年口伝隊一九四五』には以下のことが書いてある。

原爆投下の翌月、焦土と化した広島の街に枕崎台風が直撃した。
大洪水がおこり、かろうじて焼け残っていた橋も根こそぎ流されてしまった。
近隣の山々が原爆で焼けて丸裸になっていたために、大雨による土石流が多発し「山津波」と呼ばれた。
そして奇跡的に原爆から生還した2000人以上の人が、命を落とした。

家財を全て失い、火傷や怪我の治療中で、身内や親しい人を大勢亡くした上に、放射能障害である日突然死んでしまうかもしれないという恐怖におびえていた広島に、自然は容赦なく台風をもたらした。

これらの作品を読んで初めて、「文学」にしかない力、「文学」にしか表現できないことがあると感じた。

被爆者の方々が被ばくについての多くの証言を残していて、私達はいつでもそれらに触れることができる。少し前に長崎の資料館に行ったときは、証言ビデオを何本も見て(見なければならないと思った)、息が苦しくなったのを覚えている。
長い間、こうしたおぞましい大虐殺の記録というのは、フィクションで知った気になってはいけない。フィクションで知るくらいなら、そんなものは捨て置いて証言ビデオを見たり聞いたり、あるいは証言集を読むべきだ。本当は経験者から直接話を聞くのが一番だけど。すくなくともノンフィクションに当たらなければいけないのだと思っていた。

だけどこのアンソロジーは私の信念に風穴をあけてくれたように感じた。

本アンソロジーには他にも様々な種類の原爆文学が収められていて、その中には強制労働に連れてこられた朝鮮人被爆者のことや、原爆孤児のこと、売春で生計を立てるしかない被爆者、被爆二世のことが、作家の優れた表現で描かれている。
それらは多くがフィクションだけど、だからこそ登場人物の人生すべてを余すことなく知ることができる。そして心をしばし静止させて、ゆっくり噛みしめて、その本当の意味を了解することができる。

フィクションだからこそ、個人の経験・視界に入ったもの・耳に入った情報という制約を超えて、あるいは複数の被爆者の人生を重ね合わせるようにして、普遍的な「原爆」を知ることができるのかもしれない。
それに、どんな小さな心の機微をも拾おうとする作家の眼とそれを表現する技術によって、私達は「原爆」の本当に深い部分まで触れることができるのだと思う。

文学の力と関連して、詩と音楽にも力があると感じたのは、ナズム・ヒクメットが書いた「死んだ女の子」という詩と、それが曲になって戦後に流行したことを知り、さらに坂本龍一が編曲して元ちとせが歌うリメイク版を聞いたときのこと。

ナズム・ヒクメットはトルコ人の詩人で、『ヒロシマ』という詩集も刊行しているそう。
被爆者ではないし、日本人でもない。広島の惨禍を知ったのはずっと後になってからというこの詩人が、ここまで鮮烈な詩を書けるものなのかと驚く。

あけてちょうだい たたくはあたし
あっちの戸 こっちの戸 あたしはたたくの
こわがらないで 見えないあたしを
だれにも見えない 死んだ女の子を

あたしは死んだの あのヒロシマで
あのヒロシマで 夏の朝に
あのときも七つ いまでも七つ
死んだ子はけっして 大きくならないの

炎がのんだの あたしの髪の毛を
あたしの両手を あたしのひとみを
あたしのからだは ひとつかみの灰
冷たい風にさらわれていった 灰

いずれも元ちとせ「死んだ女の子」の歌詞より

私は元ちとせが歌うバージョンしか聞いたことがないけど、暗闇の中に迫りくる炎のようなストリングスと、火の粉が躍るようなピアノの音に鳥肌が立った。『屍の街』のイメージがそのまま音になったみたいだった。

6月の広島で、とある町工場を見学した。工場の半地下に在庫を保管する倉庫があったが、ここは原爆炸裂にも耐えたらしい。
工場には巨大な煙突もあったが、これもなんとか耐えた。
それ以外は全部焼けて、創業者の写真も全て焼けてしまったので、似顔絵しか残っていなかった。
戦後、近くの被災小学校の焼け残った瓦礫を使って工場を立て直し、いまでもその部分が残っているという。

流川ではお祭りをやっていて、夜は大勢が行き交い濁流のような喧噪だったが、人々の足の下に埋まっている筈の無数の骨や灰の存在を意識せずにはいられなかった。


8月6日、広島の地に眠る人々に、改めて思いを馳せる。

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