感情とはなにか

論理的に語り得ぬこと
それは論理空間に存在しない(論理形式を持たない)ものである。

「語る」というのは論理哲学論考において、論理的に表現することであり、それは文章が有意味な論理命題であることと同値である。
論理的に有意味でないならば、それは語り得ない。
文章が有意味な論理命題であるならばその真偽を問うことができる。
真偽を問うことができないならば、論理的に有意味でない。
つまり真偽を問うことができないものは、語り得ない。

真偽を問うことができないものとはなにか
例えば、「xは幸福である」という述語
この命題の意味するところは「xは”xは幸福である”と思う」という信念文である。
しかし信念文が真であることは、信念内容が真であることを保証しない。
「xは幸福である」と「xは”xは幸福である”と思う」は同じ内容を意味しているはずなのに、一方が真であることによってもう一方が真であることが保証されないことなどありえない。
よって「xは幸福である」の真偽を問うことはできない。

このように信念文のみによって用いられる言語表現はその真偽を問うことはできない。

かなり説明を端折ったが、語り得ぬことは信念文においてのみ表現され得る。

信念文によって表現された文章を感情という。
例えば「太郎は”地球は恒星である”と信じている」という命題。
この信念内容「地球は恒星である」は偽だが、「太郎は”地球は恒星である”と信じている」は真になり得る。
他の例でいうと、「太郎は”犬は哺乳類である”と信じている」という命題。
この場合、信念内容も信念文全体も真となる。
そして信念内容と信念文全体の真偽に関わらず、信念文によって表現された文章を感情という。

信念文においてのみ表現され得るものを倫理という。
先ほどの例においては両例ともその信念内容は語り得ることであったため、それらは感情であって倫理でない。

幸福は倫理によってのみ認識され得る。
幸福に対し、幸福であるか否か考えることはナンセンスである。
なぜならそうであるか否かというのは真偽を問うことと同じであり、その意識は論理的だからである。

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