論考的世界観から見る幸福

論理哲学論考においてウィトゲンシュタインは論理空間という概念を用いた。
論考の世界観を細かく説明しているとかなり長くなるうえ、複雑である。
なので簡単に説明するが、自分の意見を述べたいがための簡単な予備知識程度なので、これが論考の世界なのだと考えないでいただきたい。

論理空間には事態がある。
事態の集合ともいえるものが論理空間である。
そして事態とは現実に起こりうるものごとの総体である。
つまるところ真偽を問える文章(命題)が事態であり、事態の中でも現実に成り立っているものを事実と呼ぶ。
そして真偽を問えない、命題と呼べないものは思考不可能なナンセンスである。

例えば、「ビリーは犬である」という命題を考える。
「xは犬である」という述語(命題関数)のxの位置に「ビリー」という固有名を代入した。
この命題の真偽は真である。なぜならビリーとは私の母親が飼っているミニチュアシュナウザーを指す名だからである。

次は「くうちゃんは猫である」を考えてみる。
この場合「xは猫である」という命題関数のxに「くうちゃん」という固有名を代入した命題であるといえる。
この命題の真偽は偽である。なぜならくうちゃんとは私の母親が飼っているシープー(シーズーとトイプードルの混血種)を指す名だからである。

次は「いしそひこは赤い」を考えてみる。
「xは赤い」という命題関数のxに「いしそひこ」という固有名を代入した。
この場合命題の真偽は問われずナンセンスとなる。なぜならいしそひこが指す指示対象が世界に存在しないから存在しない対象に述語づけたところでその命題は思考不可能なナンセンスである。そしてナンセンスなものは論理的に語りえない。

つまり命題は有意味なものと無意味なものとに分けられ、さらに有意味な命題は真と偽に分けられる。ということである。

ペイントでなんとなく僕のイメージを描いてみました。
めっちゃ見づらく仕上がりました。


ワイのイメージ図

一番大きな黒枠が論理空間であり、これが思考の限界である。
そしてその外にあるものはすべてナンセンスとなる。
論理空間内に「ビリー」「くうちゃん」「タマ」「ベニズワイガニ」といった固有名と、「xは可愛い」「xは犬である」「xは猫である」「xはカニである」「xは赤い」といった述語がある。実際はもっとたくさんの名があるが、書ききれないのでこのくらいにしておく(ウィトゲンシュタインは固有名も述語もともに”名”とまとめた)。
それぞれの名から伸びている線は事態を構成する可能性である。
「xは赤い」という名について考えると、
「くうちゃんは赤い」
「ビリーは赤い」
「タマは赤い」
「ベニズワイガニは赤い」
という4つの命題が出来上がる。(ちなみに真偽は上から偽偽偽真である)
この1つの名が他の名と有意味に繋がる可能性の構造を論理形式という。
そして論理形式から外れた組み合わせ方をするとナンセンスとなる。
例えば「カニであるは犬である」だ。
「xはカニである」という名を「xは犬である」という名に代入した例だ。
これは真偽を問うことができないためナンセンスとなる。
またもう一つのナンセンスな命題の作り方が、先ほどの「いしそひこは赤い」などのような存在しない名を代入することである。(このイメージ図の論理空間内に”サンタクロース”という名は存在しないため、「サンタクロースは犬である」という命題はこの論理空間において真でも偽でもなくナンセンスとなる。)

あともう一つ重要な概念が「主体」である。
これについて詳しく述べると独我論の解説になってしまうので手短に説明すると、命題の名として扱えるものを「動作主体」と呼び、この世界の存在の前提となる意識は名として扱えないとし、それを「思考主体」と呼んだ。
これについて詳しく語りたくてウズウズしているが、やめておく。
簡潔に言うと、思考主体は世界の限界(思考の限界)であり、世界そのものなのだから思考主体は名となり得ないということである。
ナンセンスというとすごく空虚な感じがするが、論理的に語りえないというだけのことである。(仮に「”思考主体である私”は幸せである」という文章があったとしても論理的に真偽を語ることができないというだけのことである)
ウィトゲンシュタインは論理的に語りえないナンセンスの領域に倫理と美を見出し、倫理こそが美であり美こそが倫理であるとした。

さぁ、前置きは終わりです。
私が論考の考え方を通じて何を言いたいかというと、幸福って気持ちの問題だよなってことです。
あまりに浅慮で馬鹿馬鹿しいように見えるが、それなりに理由はあります。
幸福につながる現実の出来事(例えば、シロノワールを食べる)で幸福感を得たとしても、それは現実に存在する動作主体である私が糖分を摂取し快楽物質を出しているに過ぎません。
そして現実の出来事である以上その幸福には論理的な因果律が発生します。現実に幸福を見定めると、幸福のための行動やそれなりの対価、犠牲が必要となります。その対価を払うための犠牲によって不幸になってしまう可能性もあり、それでは本末転倒です。
その幸福を思考主体に求めるならば、そこは論理的に語りえない領域であるゆえ幸福に関わる論理的因果律もその因果を満たすための現実世界での出来事も必要なくなります。
思考主体の幸福さえあれば、現実がどんなに辛いものであろうと幸福である。違う言い方をすれば、思考主体が不幸であれば、現実がどれほど満ち足りていようと不幸である。

じゃあ思考主体の幸福ってどうすりゃええねんって話だと思いますが、正直わからないです。
ただナンセンスの領域に倫理・美があるならば、自身の倫理観や美意識によって内面的な豊かさを保つ必要があるのかなと思います。
○○によって××する必要があるというとハードルが高いように感じると思いますが、結局のところなんか幸せな気がしたら幸せなんだと思います。
投げやりな文章になりましたが結構真面目に書いてます。

私の文章力のせいかあまりぱっとしない感じになりましたが、言いたいことを一文にまとめるならば、
「幸福とは究極の結果論である」ですかね。

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