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母と祖母について-高3-

嘘と無気力な自分

 高校3年生になると周りのみんなは受験モード。でも私はそれどころではありませんでした。「勉強なんてしてたら死ぬ、休まなきゃ。」必死に考えた結果、とりあえずそれっぽい理由をつけて専門学校に進学することにしました。本当は浪人してゆっくり大学受験をしたかったんですが、そんなこと母が許すはずもなく。とりあえず進学を早々と決めておけばこの一年は休ませてもらえる。専門学校についてもかなり揉めはしたんですが、もう身体が限界な手前、ここで押し切っとかないと本当に取り返しがつかなくなる。それっぽい嘘をあたかも真実のように語る。言いながら虚しくはありましたが自分を守るためにはこうするしかなかったと思います。もう、私が考えを変える気がないと信じたんでしょう。というより、自分の思い通りにならない、めんどくさい。そんな感じでしょうか。母も私に興味を示さなくなりました。
 ただ、この作戦。結局失敗だったんです。1年間休める。そう思っていたんですが、母が「受験しないなら家事くらいやんなさいよ」って。元々家事はちょくちょくやってはいたものの、たとえば布団を干す作業なんかは母の監視付きでどの布団、毛布をどこに干すというのを全部指示されながら私が干すんです。身体もふらふらなのに洗濯して水を含んだ重たい毛布を持ち上げて干す。そして「だから、違う!そこじゃないって!!」って怒鳴られる。もう抵抗する気力なんてありませんから黙って従ってましたけどね。

嫌いだったおばあちゃんとの2日間


 高校3年で一番私の記憶にあるのは母方の祖母が亡くなったことです。祖母は私の母ととても折り合いが悪くて、家に行くたびに毎回怒鳴り合いの大喧嘩をして、そのストレスを私たち家族にぶつける。そんなルーティンが出来上がってましたから、私は祖母が結構苦手、というか嫌いでした。まんま私と母の関係だったんです。もっと酷いかも。でも祖母は私や兄には優しかったですね。毎回電話に出るたびに「いつもまことちゃんの写真に向かっておはようっていうのよ」って。それを聞くたびに「そんなことよりも母さんと話したら?」と何度も思いました。(言わなかったけどね)
 そんな祖母ですがその年の5月ごろに末期癌で余命宣告されたんです。「もう年は越せない」って。身内にそんな経験がなくて、実感がなくて、しかもこないだの大晦日に会ったばっかりだったから急に言われてもって。でももう年は越せない、症状からしていつ亡くなってもおかしくない。そんな状況だったので余命宣告された週の土日、埼玉から沖縄へ飛びました。
 病室に行ってみたら徒歩5分のスーパーに行くのにも香水を振って指輪をつけるような祖母が髪も乱れて痩せて横になっていました。そんな中でも「まことちゃん」と私を嬉しそうに出迎えてくれて。近くにあった紙にお金包んで「これお小遣い」ってくれました。そしていろんな話をしました。私がメイクをしている姿を初めて見て、「化粧は女性の嗜みだからね」って。母にはずっと「色気づくな」と言われていたからすごく嬉しかった。そして沖縄戦を生き抜いたおばあちゃん。疎開に行くとき、あの対馬丸の次に出港した船に乗って、その残骸をみた話。そんなおばあちゃんが「戦争はね、絶対ダメ」どんな資料よりも説得力がありました。ずっと嫌いだったおばあちゃんとたった2日間の短い時間でしたがただの孫として話が出来て嬉しかった。そして日曜日の帰る間際、「これしかなくてごめんね」って、包むための包装紙がなかったからそこにあったティッシュにお金を包んで私に差し出してきました。少し認知症も入っていて、前日私にお金をくれたことを忘れたんでしょうか。申し訳なくて、どうしようかと思いましたが周りの大人が貰うように促したので受け取ることにしました。今も私のお布施の中にそのティッシュが閉まってあります。病室を出るとき、目を合わせて手を振ってお別れした2日後、おばあちゃんは天国に旅立ちました。看取った兄曰く、とても安らかな最期だったようです。

おばあちゃんの形見のネックレス

母の母と私と母

 亡くなったおばあちゃんに会いに行って、遺体と対面して。母が震えて泣いていました。祖母が亡くなるまで2人のわだかまりは消えないままでした。ここでなんとなく気づいたんです。母がなぜ私たちの家庭を壊したのか。母は祖母からの愛情を諦めきれなかった、というか祖母との何かしらの繋がりを捨てきれなかったんです。母から聞いた限り、そして母の家族や親戚を見ている限り祖母は問題のある人間だったんだと思います。それこそもしかしたら毒親っていってもいいくらいに。
 それでも祖母は母にとって母だった。それぐらい親子は固く繋がれていて離れるにも多大な痛みを伴うもので。祖母や家族とのこじれからくる負担の吐口が弱い存在の子供である私に向いた。自然な流れです。親との亀裂の痛みは私も身をもって感じてきた。考え方を変えればとかそんなことで消化できるものではないと分かっています。親に対して働きかけてきた時間が長いほど、労力が大きいほどそうなんです。でもね、母さん、あなたは母になる決断をしたんです。それは私たちに持ち越す前に向き合うべきだったんです。そしておばあちゃん、あなたも大きな責任を取る必要がある。そして私がそっちに行った時はわだかまりのない状態で話をしようね。

うつ病の診断


そんなおばあちゃんの死から数ヶ月経って、私はようやく今までの自分の体の異変に気がついてきたんです。下校中に自転車で倒れることが増えて「これは明らかにおかしい」と。母に隠れて心療内科の予約を取って(結局バレたんですが)そこでようやく重度うつ病の診断が出ました。その病院ではうつ病の診断ってある問診?みたいなものを点数化して行うんですが、お医者さん曰く「こんな点数は見たことない」と。「あなたはうつ病じゃないです。まだ頑張れます。」って言われたらどうしよう。そうしたらもう本当に打つ手がない。そう思っていたから、自分の苦しみに名前がもらえてとても安心したのを覚えています。おばあちゃんの死、そしてうつ病の診断と、今思えば終わりと始まりの年だったんだなぁと振り返ってみて感じました。

あとがき

 最後まで読んでいただきありがとうございました♪多分私が測れないほどの感情の行き交いがおばあちゃんと母にはあったのかもしれないです。小学生の時は「何度も何度もうざい」って思っていた戦争についての学びでしたが最後の最期におばあちゃんが私にそれを授けてくれました。  正直、沖縄の人間には酷い目に遭わされたのですごく憎んでたんですが、戦争について考える機会が沢山あったのは恵まれていた環境だったのかもしれません。そしておばあちゃんと母の関係の最期もその時だったから、なんというか、やっと終わったんだなって、そしてこれぐらいの衝撃がないと終わらないんだなって母の姿を見て思いました。次はちょっと小休憩で楽しいこと書こうかなぁ笑 また次回もお付き合いくださいませ☀️


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