壊れる前の私の家族 -小学校-

幸せで恐怖に蓋をしていた

 すごく家族が大好きだった。それこそ母は休日、ホットケーキを焼いて、生クリームとアポロとかきのこの山とか、そんなお菓子をたくさん用意して私と兄に自由に飾り付けさせて一緒に食べたり、父も母の誕生日に私たち兄妹を呼んで母のために一緒にコロッケを作ったり。母の日には必ずカーネーションを買いに行ったり。
 ただ、その頃から夫婦喧嘩は激しかった。怒鳴り合いになっては2、3日家がひりついて、飛び火のように兄と私が八つ当たりされる。前回のnoteでも書いたが、私がリビングに戻ったとき、パソコンが真っ二つに割れていたこともあった。毎回怒鳴り散らしては母が泣き、父が諦めたように母をなだめる。そしてその次の日、別の件でまた喧嘩が起こる。兄は止めに入ってたみたいだけど、私は怖くてそんなことできなかった。母を怒らせたら耳か頬をつねられて突き飛ばされたり。だから母の命令は基本絶対だったし、それが家族の形だと思っていた。それに優しい母を知っているからそれで心を病むなんてこともなかった。

苦痛だった小学校生活

 私は小学校を一度転校している。小学校2年の5月に田舎の小学校に転入した。とても治安が悪く、同調圧力やヤンキー文化が秩序となっていた場所。当然馴染めなかった。出会い頭に喧嘩をふっかけられるのは日常、サッカー部の男子にお腹を蹴られたり、上級生に家までついてこられたり。「死ね」がおはようよりも会話に出てくる。1日でも早く、会社から父に異動命令が下される日を待っていた。

偽りの均衡

 家はこの頃は落ち着いていた、と思う。父も私たち兄妹に悪影響が出ることを嫌ってか、母と衝突するのを避けていたように思う。そして私たちも母の理想に応えようと必死だった。母の命令で柔道を習っていた。高校生や中学生と同じメニューで3時間の稽古。家に帰って、シャワーを浴びて、宿題をしたら寝るのはいつも深夜1時。ずっと辞めたかったけど、母が怖くて言い出せなかった。母が私に対して「あんたは母さんと一緒で顔では男には選んでもらえないんだからね」とか「本当腕も太いし、胸板すごいわね笑母さんが若い頃は40キロぐらいしかなかったのに笑」と私の容姿を揶揄うことも増えた。顔はどうしようもないし、太ったのは柔道のせいじゃん。でもやっぱり母が怖くて、苦笑いで「そうだね」と答える。冗談として受け流せない自分が少し情けなくもなった。でもあいかわらず優しい時もあったからずっとそれに縋ってた。私が12歳になるまで、皮肉にも私の家庭は全員が母に服従すると言う形で均衡が保たれていた。そして小学校6年の秋、父の会社の関係で母と兄、そして私の3人が次の年から埼玉に引っ越すことが決まった。私にとっては念願。でも、この引っ越しで家族の均衡は完全に崩れ去った。

あとがき

 読んでいただきありがとうございました♪次回は私の中学生の頃のお話。書いてみて思うのですが、自分の過去を時系列に文字にしてみるとあの時の自分が映像で頭の中に蘇ってくるみたいです。私の場合、いい記憶はほとんどありませんが、頭の中が整理されて少しスッキリします!また次回もお付き合いくださいませ☀️

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