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崇高なる油そばの世界
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油そばという食物があるということを知ったのは大学に入って上京してきてすぐのことだった。90年代の後半である。それまで暮らしていた木更津には当たり前にラーメン屋がそこかしこにあったのは言うまでもないことだけれど汁が無い形態の油そばというものを出す店というのはついぞ目にしたことがなかった。上京して高田馬場にあったミニシアターでバイトをはじめ、馬場の町をよく歩くようになった。古書店にも目が
文学にアール・ブリュットは可能か?
ぼくがアール・ブリュットと出会ったのは、もう10年以上は前のことになるだろうか。以前に勤めていた障害者施設で、いま(2000年代後半ごろ)フランスとか、ヨーロッパでは日本のアール・ブリュットが注目されているんだという話を研修か何かで耳にし、そこで映し出された作品群のスライドに一瞬で心を奪われてしまった、そのときからだ。
その後2010年にパリでは「アール・ブリュット・ジャポネ」という大々的な「
映画「幸福は日々の中に。」レビュー
東京で(知的障がい)福祉に関わっていたりすると、入所施設という存在自体が疑問視されるものであったりして、地域移行や自立支援や一般企業への就職といったキーワードを耳にしない日はなくて、そしてそうしたことがノーマライゼーションの御旗のもと推進されるのが当たり前の状況になってきてはいる。だから、正直なところこの映画に出てくる施設はともすれば時代おくれで昭和の福祉のかろうじての生き残りのようにみえるかもし
もっとみるアール・ブリュットについて考えるために⑤:映画「ヴィヴィアン・マイヤーを探して」
良い題材だとは思うけど、退屈なドキュメンタリーであった。写真に興味があってこれを面白いと思う人には大変申し訳ないけど、僕は飽きが来てしまった。
というのも、故人の思い出話が淡々と語られるのみで、そのライフストーリーが写真作品とどのように有機的な繋がりをみせるのか、というようなところまで話が及ばない。ヘンリー・ダーガーほどの特異な人生ならともかく、この程度の「変わり者」ではわざわざ「ドキュメンタ
アール・ブリュットについて考えるために④:宮本忠雄「精神分裂症の世界」
分裂病が統合失調症へと呼称変更されたのは、ひとえにそれが「治る」病であることとして時代的/社会的に画定されたからではないだろうか。「バラバラになっている・引き裂かれている」というような含意はそのどちらの呼び方にも認められるものの、「統合」という状態が単にむずかしくなっているだけだ、という意味合いをもたせる病名に変化したことは、つまりは「統合されている」=「治癒している」という状態が少なからず可能
もっとみるアール・ブリュットについて考えるために③:ヘンリー・ダーガーの本とDVD
ダーガーの作品は、正直言ってあまり好みじゃなかったんだけど。というのも、「拙さ」がまず先に目に飛び込んで来てしまうような気がしたんだよね。
でも、アール・ブリュットの「発見者」たるジャン・デビュッフェの、
「われわれには、もっと波乱に満ちた海原を、はるか遠洋をめざす大航海をとっておくことにしよう(・・・)たとえそこに、「初歩的で未熟な」要素があろうと意に介さない人々(・・・)のためにとって
アール・ブリュットについて考えるために②:ガスケ「セザンヌ」
流麗な文体に魅了されるセザンヌの評伝。近代人であり、芸術家であるということは、このような人のことを言い、このような語られ方をする人のことを指す。それこそドストエフスキーの小説の登場人物のように煩悶し、苦悩し、怒ったり大喜びしたりする。感情はつねに安定することはなく、「ほとんど病的」な側面がピックアップされる。まさに芸術家とはそのようにあらねばならないのだが、しかしそれが「完全に」病気になってしま
もっとみるアール・ブリュットについて考えるために①:都築響一「夜露死苦現代詩」
この本はすぐれたアウトサイダー・アート/アール・ブリュット論として読むことができる。狭義においての「障害者芸術」というような括りではなく、もっと広くそのジャンルの定義を「正規の美術教育から外れている」というあたりに据えてである。
もちろんのことアウトサイダーアートは美術においては傍流であるにすぎない。それはまずもってそのジャンルの定義において正統性からの逸脱を本質的に謳っているからなのだが、そ
レベッカ・ソルニット「災害ユートピア」を震災直後に読むということ(2011)
今こそ読むべき本だなどというありきたりな煽り文句が、真に差し迫って聞こえるのはまさにこの時期をおいて他にないだろう。読むべき、という推奨を超えて、僕にとっては「読まされている」という感覚にすら近いものすらあるが、しかしそれは強制されているということではなく、この本そのものによってそうさせられているようなものだということである。つまりこの本に、僕(たち)が読者として指名されたという感覚が、確固たる
もっとみる原宿で暮らす(2010)
「原宿で暮らす」というと、違和感としかいいようのないものをそこに感じてしまうのが普通だろう。「田舎で暮らす」だったり「郊外で暮らす」などと書けばとてもふつうの表現として受け入れられるけれども、原宿で、という地名がつくと、それだけでどうしても自然な言い回しではなくなってしまう。「都心で暮らす」というキャッチコピーの範疇には入るのかもしれないが、そこからもこぼれおちてしまうのではないか、という気がし
もっとみる国道16号線(2011)
8月15日、終戦記念日。夜に元はぱちか村であった高円寺のパボカフェで軽くラウンジDJをする。昼間に気合を入れまくって部屋の大掃除などをしてしまったせいか、出発直前に眠くなり、お昼寝。そして遅刻。まあたいした問題ではないのだけれど、それでも遅刻するということには少しばかりの焦りが付随する。そのようにぼくの日本的身体はセッティングされている。19時51分急行新宿行きに乗り込み、新宿に着いたら20時1
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