[理系による「映画」考察] 羅生門(1950) ➡キュビズムで映画を作り上げる芸術家、黒澤明
黒澤明が世界的に評価された初めての映画です。
で、黒澤明の映画を見て思うのですが、黒澤明は、
・技術進化により演劇を映像表現にする
な位置付けで映画を作っている気がせず、
・絵画を映像表現に落とし込む
な意図で映画を撮っている気がするのですよね。
なぜなら、黒澤映画をどのタイミングで一時停止しても、
あ、黒澤明だ!
と分かってしまう絵になってるんですよね。
で、本題の"羅生門"ですが、個別の絵も濃いですが、それよりもここで語りたいのは、
映画をキュビズム的に作っている、
ことになります。
具体的に、この映画の原作は、芥川龍之介の"藪の中"です。
詳しくは下記に書きましたが、文学をキュビズム的に作った究極形が"藪の中"になります。
よって、これを映画化するためには必然的にキュビズムで映像を作る必要がありますが、"藪の中"では、キュビズムにおける再構築は読者にゆだねる形にしています。文学だとそれでいいのですが、映像だとそれではエンターテインメントにならないので、監督が再構築したものを明確に見せる必要があります。
で、黒澤明の凄いのは、超大文豪である芥川龍之介の投げかけ、つまり、
再構築できるものならやってみろ!、
に対して、堂々と応え、見事な再構築映像作品を作り上げたところです。
というわけで、芥川龍之介も妖怪ですが(芸術家という意味)、黒澤明も妖怪であることが分かる映画であり、キュビズム的な解釈ができ、個別の絵が妙に絵画的という意味で、今までにいない画家的な感性が尖がった映像作家、だと自身は認識しています。
最後に、キュビズムな映画としては、下記の"グランド・ホテル"があるのですが、この映画は超技巧派によるものであり、造形的な構成に特化したキュビズムの絵画を彷彿とさせるのですが、"羅生門"はキュビズムに情念を付加しており、キュビズムで感情を表現することを試みた"ゲルニカ"を思い起こさせるのですが、2つの映画を見比べてみるもの面白いですよ。