魂と魄

 藤田ニコルのインタビューなんだけれど、恋愛に関してのコラムで、「身体の相性は大事。致してから付き合わなかったこともあるし。」みたいなことが書かれて驚愕していた時のこと。

 可愛いらしい顔して何てこと言うんだろう…と思いながら、いわゆる自身の経験則を冷静に分析するその様はまた、芸能界の熾烈な競争を乗り越えた強者の風格が漂っていて、なるほど…と思わされたのだった。

 静かなる自信や正直さは、幾度となく批判されながらも、また信念によりさらなる飛躍を遂げた唯一無二の彼女だからこそ為せる技なんですね。(彼女はデビューからしばらく、「これでモデルかよ~」とディスられた背景がある。そこでめげずに成功し、今や憧れの著名人となるのだった。)

 でもこれらの正直さは、勇気という言葉はなぜか似合わない。自分のコメントに対して、反応を予測できているように見える。見栄を感じない。つまり、彼女は”異常な客観能力と、分析能力を兼ね備えている”。

 自分のコメントに対して、層によってそれぞれ違った反応が来ると考えられる分析は、絶え間無い批判を浴びてきた彼女にしか出せない先見の明かもしれない。彼女は人間界には様々な種類の人々がいることを見抜き、自然体な自分を無理なく出せる領域まで到達したのだ。

 仏教で言うなら、魂と魄。太陽が東から出て西に沈むように。人は純粋な主観を用いて何かを志し、いずれは経験を元に客観し、自身の歴史、またその応用から、世界を冷静に理解していくという。すなわち、死に近づいていくのだ。

 可愛いらしい顔してカッコいいハートを兼ね備えた彼女は、滅多なことがなければ、その心は揺るがないのであろう。

 年齢を重ねると、魂から魄に近づくのは世の常だ。経験がベースとなり、遅かれ早かれ、大体のことは予測、分析できるようになる。

 「これはどうせこういうパターンだ。」「こういうタイプはどうせこうだ。」

 10代ならば胸がバラバラに割れそうになるようなトキメキも、次第に感じることができなくなっていく。

 そもそもあのとき、なぜトキメキを感じれたのだろう。答えは簡単。”知らなかった”からである。

 予測できないから、ドキドキする。展開がわからないから、面白い。 手を繋ぐだけで精一杯なのは、真っ白な心が細やかなドラマで満足できるためである。

 何てことないのに、「嫌われてしまうんじゃないか…」とか、「怒らせちゃったかな…?」とか、「しまった…言い方変だったかな…傷つけてたらどうしよう。」なんて勘ぐって、相手をまるで宝石のように大切にしようとしてあげるのもこういう時期である。

 若い時にこのような経験をしていないと、もっと大人になった時、スマートな対応ができない。男性ならば、「童貞っぽい」とか、女性なら「色気がない」とか散々な言われをすることもあるだろう。

 しかし、何も経験人数が多いから偉いなんてことはないのだろう。むしろあまりに異性経験が多いとかえってマイナスイメージになるので、やはりバランスが重要だと思われる。

 それと同じように、魂と魄のバランスは、とても大切なものである。神は細部に宿る。とも言われるように、人が見てもいない小さな部分を見分けるのはガラス細工のように繊細な作業なのだから。

 これは、親子関係、師弟関係、上司と部下の関係にも繋がってくる。経験を積み、俯瞰できるようになった冷静な年上は、感情を備えた未来ある年下の”センス”を見抜くことができない。そして肝心な年下は、せっかく年上が視野を広げ、様々な立場を考慮した”客観的意見”を理解できないのだ。

 もちろん年下は、「なんでわかってくれないんだ。」「俺は純粋な気持ちを持ってるのに、なんでアイツは否定ばかりしてくるんだ!」「アイツは夢を否定するクズだ!」と認められない自分をあわれみ、反抗することになる。

 こういう構造はよくある光景だし、おそらくこれからの歴史も続いていくのかもしれない。

 脳科学によると、身体の成熟はハタチからだが、脳(前頭葉)が成熟するのはサンジュウからという。

 これは、大人になると責任が増えて、いちいち小さなことで動揺できないし、センスよりも管理能力、目下の面倒を見る懐の広さを発揮しなければならないから、人体の仕組みとしては当然なのかもしれないね。

 どんどん鈍感になっていく儚さと引き替えに、分析能力、客観視、冷静さが磨かれていく。まさしく生から死に向かうサイン。魂を殺すことによって、不動心から、本当の実力を発揮できるようになるのである。

 この状態になると、「親父が言いたいことはこういうことだったのか…!」「社長、なるほど気づかなくてすみませんでした…!」みたいな反応になるように、以前では納得できなかったことがどんどん理解できてしまう怖さがある。笑

 再三言うように、重要なのはバランスである。二歩進んだら一歩下がる。今の自分をあれこれ疑う。それは逡巡。突き進んだら、下がる。突き進すんだら、また下がる。今が全てと思うと、大事なものを無くしたことに気づけないかもしれない。

 10代の時、浮気や不倫を許せなかったのに、ある程度の年齢になるとそういった行動に出てしまう人がいるとする。それもまた、魄にいきすぎた者の末路である。

 何かを知った気になる。そしてそれを冷静に理解しはじめる。分析した枠組みの中で、道徳からは脱線してはいるけれど、実は大して問題じゃないと思い始める。罪悪感も感じなくなる。

 そんな自分に治外法権を設けると、基準値もそこに行く。問題なのは…。”それそのものじゃなく”、ふとした時、肝心な瞬間に、あまりに常識から脱線した発言を不用意にしてしまい、トラブルや炎上が起きてしまうことになる。

 そういった危険は、もっとヘルシーに刺激的な日常を求めることで解決する。新しい習い事、旅行、忙しいなら、些細な日々に導入できる習慣…。てっとりばやく不倫や浮気などという行動で非現実体験を求めていると、脳がドーパミンに慣れてしまい、信用をBETしてることを忘れてしまうのだ。

 パーフェクトな犯罪者がいずれ捕まってしまうのは、「これくらいなら大丈夫だろう。」と油断して気づかぬうちにエスカレートしてしまうからだという。やるならば、細心の注意を払うことだ。と本来は言っておきたいが、やはり無理だろう。浮気や不倫も、長年ハマればいずれはバレるだろう。相手が執念に満ちた者ならば、さらに復讐されるリスクがある。

 ここで気になることがある。魄は”客観視が強みではなかったのか?”と。”客観視ができるはずなのに”、”客観から外れた行動”をしてしまう。そこが人間の面白い所である。東大出身の超優秀官僚がバカな発言をして取り返しがつかない事態になるのを想像してみてほしい。

 光が強まればまた影も濃くなる。今、自分が求めるものを、懲りずにさらに求めれば、バランスを崩し見るも無惨な姿になる。それはグラスいっぱいの水にさらに水を注ぎ込み、テーブルがびちゃびちゃになるようなものだ。

 じゃあ年を重ねたけれど、少年のような心を持って感情赴くままに真っ直ぐ突き進めばいいのですか?と言われそうだ。やはりそこもバランスになってくる。理性と感情が黄金比になる努力。ミクロとマクロを交互に行き来する柔軟性。さらにそれは自然体でなければならない。無理して自分の姿を変えるのは偽善であり、また自身の精神的負担も大きい。危険すぎるのだ。

 些細にリンクする話だけれど、世界の資本主義構造、そろそろ限界だと思ってる。風船が破裂する前にベーシックインカムが導入されたり、自動化などの便利さで誤魔化しが利くことでまた新たなヒントがもたらされ、金融の仕組みも変化するのかもしれないね。

 気持ちのフレッシュさを失い、客観的になりすぎていつのまにか脱線する。気持ちのフレッシュさに任せて目先のことしか考えられず自爆する。実は全く違うようでかなり近い関係なのかもしれない。

 ⬇️AIに出させた人が冷めていく原因。これも互い、またどちらかの魂と魄のバランスを崩したことが関係してるケースが多々ある。⬇️

 - 相手との継続的なコミュニケーション不足が冷めていく原因になることがある。例えば、連絡を頻繁にとらなくなったり、話題がかみ合わなくなったりすることがある。
- 興味を持たなくなったことが、人が冷めていく原因のひとつになる。例えば、相手の話題に関心がなくなってしまったり、価値観が違ってくることがある。
- 役割が思い描いたものと違っていると感じたり、信頼できなくなったりすることが、人が冷めていく原因のひとつになることがある。
- ある程度親しい人だけと付き合いたいと思ってしまったり、自分の価値観や考え方に合わないと感じると、人は冷めてしまうことがある。
- 情熱や意欲を持っていたことが成長や変化により失われたり、必要性が感じられなくなったりすることが、人が冷めていく原因のひとつになることがある。


 そういえば、男性より、女性のほうが冷めたり、魄になるペースが早い気がしたけれど、それは恋愛では男性がアクティブに動いて女性が待ちなパターンが多いからかもしれない。つまり男性が行動に時間を費やしてる時間、ちょうど女性は男性を分析しており、行動をしていない分、精神活動が発達しているのだ。

 格闘技でいうなら、カウンターパンチャーのようなものである。攻め手と受け手の対比構造がそこにある。

 また性別や恋愛に限らず、何らかの欲望の対象になると、相手との温度差からさらに視点が冷めてしまう危険性がある。特にSNSが発達しているこの世代は、魂から魄へ刷り変わるスピードが早い。昭和よりも平成令和が冷めているのは、そういった弊害からかもね。

 最近は鬱や精神疾患も昔と比べてどんどん増えているけれど。デジタルがどれだけ進化しても、生身の肉体は、魂から魄への急激な変化に対応できるようにはできてないのだ。

 何かを知っても、何かを言われても、自身の純粋な感情を殺さないこと、されど純粋さに縛られて現実から目を背けないこと、だからといって現実を知った気になって道を外れないこと。それは、当たり前のようでいて難しい、一見矛盾に見えた真実を司る正しきルートなのかもしれない。

 デジタルデトックスが流行ってるらしいけれど、こういった普段見逃しがちな内面、自分への理解や愛を知ることのほうが重要な気がするが、いかがだろうか?



Mr.J-Boy

 



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