無意識なレガートがフレーズを腐らせる
ベートーヴェンop125第4楽章。その冒頭のレシタティーヴォ風フレーズは7小節めのインパクトによって立ち上がり、小節の3拍子で歌い出す。つまり、7小節め、10小節目、13小節目、16小節目にそれぞれの踏み切り点がある。その3つの節目を明確にすると、音の数合わせから解放され、音楽的に掴める。そうやって初めてテンポ感を持ったフレーズとなり得る。
リズム感が分かることで音符たちが小節線を中心にするグループ化される。
長い音符を響かせることにすると、形が不明確になる。逆に8分音符がつくるグループを中心に語ろうとすることで、明確な形が見えてくる。
それは、BWV1068の序曲やairの演奏で培った教訓だ。
例えばBWV1068の序曲の冒頭の長い音符をたっぷりに鳴らしてしまうと16分音符の動きはその長い音符に巻き込まれてしまう。airの2小節目も同じだ。
長い音符に短い音符が付属するのではない。短い音符の動きから言葉は始まるのだ。
それが言葉の節目になる。節目も無い音の垂れ流しは手抜きのDTMと同じだ。
もちろん、それだけでは言葉が散文的になってしまう。そのバラバラな言葉を一つに結ぶために小節構造の把握が必要になる。この序曲の冒頭は0小節目を起点とする小節の5拍子である。
歌うとき、無意識に、勝手なレガートがされがちになる。吹奏楽の練習に付き合っていると、それを如実に感じることが多い。管楽器にはその傾向が強い気がする。
一方、弦楽器では弓を返してればいいように思われがちで、そのあたりが曖昧になる。だが、安易に弓順で弾き続けているときは、無意識の勝手なレガートに陥っていることが多い。
安易なレガートは音楽の形を見えなくするのだ。
弦楽器ならば、どう弓を切り返すか? 管楽器ならば、ブレスをどこに置き、どうタンギングしていくか。どちらにしても、そういう設計がなくてはならない。
楽譜のアーティキュレーションやフレージングに意識的にならなければならない。感覚や趣味で流していると、形が見えない演奏に陥ってしまうのだ。
楽譜にないレガートをしたい時こそ、作品との対話が必要だ。なぜ、そこにスラーがないのか。生理的にそのぶつ切れが不自然に感じるとき、実は微分の視野に堕ちていることが多いからだ。
その音符が、ではなく、その背景である小節設計、拍節から考える。そうすると、そのレガートをしたい自分と楽譜の狙いがどこかで折り合いがつくものだ。楽譜と対話するのは面白い発見のチャンスなのだ。